インドラ・デヴィ・マタジ(1899年−2002年)の生涯を讃えて

ヨガの女性第一人者とスワミ・プレマナンダ

ヴィディア述

これらの記事は、ヨガの女性第一人者=インドラ・デヴィ・マタジを記念するものである。

1987年から1994年までの間、スワミ・プレマナンダの祝福のおかげで、私は、インドラ・デヴィ・マタジとともに楽しいときを過ごし、彼女の話を聞き、インドを旅行し、ヨガを学ぶさまざまな機会を得た。今月の始めに、インドラ・デヴィ・マタジは現世の肉体を離れ、102歳という輝かしい年齢でマハサマーディを得た。5月12日に103歳を迎えるところであった...

前回彼女のニュースで持ちきりになったのは、アルゼンチンでの彼女の100回目の誕生日であった。彼女は自分の家の側を通るすべての車を止めて、車に乗っている人々にバラを一輪ずつプレゼントしたらしい――新しいが非常に効果的なやり方で至る所に愛と平安を広めているマタジの典型的なやり方であった!

インドラ・デヴィ・マタジは91歳のとき、私たちのアシュラムで頭の活動を停止するポーズさえ行った。彼女はヨガと瞑想の驚くべき恩恵の生ける証拠であった。マタジは晩年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに住み、自らのアカデミーでヨガを教えていた。彼女は、"アメリカにおけるヨガの女性第一人者"としてだけでなく、1960年にロシア政府の大臣たちに彼女の母国語で感銘を与えるスピーチを行ったことにより "クレムリンでヨガを紹介した女性"としても有名である。ロシア生まれのマタジは、生涯の大半、絶えず会議への出席や講話のため世界中の至るところから招かれていた。彼女は、外交官用旅券を持ってさえいた。彼女には、まったくビザを取る必要がなかったのだ。

マタジはインドで22年間を過ごしたが、マイソールのヨガの偉大なる教師スリ・クリシュナマチャリアによってヨガを伝授された初の西洋人の弟子であるだけでなく、スリ・クリシュナマチャリアによってヨガの伝授を受けた初めての女性であった。彼女は、現代インド史上の大人物たちと親しく交流した。その中には、ジャワラールー・ネール、インディラ・ガンジー、J.クリシュナムルティ、マハトマ・ガンジー、ラビンドラナート・タゴールが含まれていた。彼女の親しい友人たちは、ディヴァイン・ライフ・ソサエティーのプレジデントであるスワミ・チダナンダ、アメリカ合衆国ヨガヴィルのスワミ・サッチダナンダ、スリ・サティヤ・サイババであったということが、幾冊かの本に書かれている。彼女は、サイババがくれたという巨大なダイヤモンドに顔を輝かせた。私は彼女に、それはどのように起こったのかを尋ねた。「友よ」と彼女は答え、「最初にサイババは、私に巨大なエメラルドを物質化してくれました。でも、私は彼に、これは私の好きな色ではありませんと言いました。それから、彼はエメラルドに息を吹きかけ、それがダイヤモンドになったのよ」。マタジがしばしば着ていた数枚のオレンジ色の正絹のサリーは、非常に美しかったが非常に古かった。それらのサリーは、サイババがマタジにくれた贈り物で、彼女はそれをたいそう大事にしていた。
私は、マタジが1980年代に私にくれた数多くの書類やノートを保存している。私たちは、マタジが完全に書くことをやめた数年前まで、文通を続けていた。

以下は、個人的な思い出から抜粋したものであり、マタジ自身の言葉によるものである。これはまた、恩寵ある過去の出来事と結びついている。マタジはスワミジのもとを1987年に訪れた。マタジはティルチーのホテルに滞在し、私は彼女といっしょに泊まらせてもらった。それは、私たちがアシュラムに住む前の頃であり、マタジは水道と電話を必要としたので、私たちは市内に滞在したのだ。そうは言うものの、私は、スワミジの指示によって一週間沈黙を守っていた。スワミ・カマラナンダは、マタジに同行するよう私をティルチーへ送り出すとき、次のように言った。「ヴィディアが話をすることができないのは心配だ」。マタジは、私がおしだと誤解し、私が実は沈黙を実践しているのだということを書いて説明したとき、私たちは二人で笑い合った。これは、大いに好都合であった。なぜなら、マタジはたくさんの美しいことを私に説明してくれたからである。

マタジは次のように述べた:
「...1981年、私の前秘書ポール・オブライエンは、私の新しい本のことで私の手伝いをするためにアメリカから到着したのだけれども、オブライエンはその場所を訪ねたことについてスリランカから手紙を書いてきました。彼は手紙で、私はスワミ・プレマナンダを知るためにマタレのプバラ・クリシュナ・アシュラムへ行くべきだと言っていました。オブライエンの意見では、スワミ・プレマナンダはスワミ・ヴィヴェーカーナンダの再生であるというのです。
もちろん、私はオブライエンの提案に直ちに従い、数日後にはコロンボに降り立ち、私たちはスワミ・プレマナンダのアシュラムへ向かいました。私たちがインタビュー・ルームの床に座るとすぐに、スワミジは、スワミジと私は複数の前世で結びつきがあり、私たちの出会いは運命づけられていたのだと言いました。彼は私の到着を、弟子たちの一人とともに8年間待っていたのでした。そのとき、スワミジは私に、私たちの未来と過去のつながりについて詳細を明らかにし、それは同時に、アメリカの透視者が1947年に私に言ったことと一致していました。

シヴァグナーナム氏は、当時スワミジの秘書でしたが、スリランカでの電撃的な出会いにより、スワミジの奉仕のためにチーフ・エンジニアの地位を辞任した人です。彼が、私たちの会話をタミル語から英語へ、また英語からタミル語へと通訳してくれました。他にも教養ある弟子たちがおり、そのうちの何人かはもとビジネスマンでしたが、彼らもそこにいました。私は、その弟子たちのうちの一人がかつてマタレのアシュラムに関してスワミジに言ったことを、私に話してくれたのを思い出します: 「私に2万ルピーください。そうすれば、私は東の敷地を宝の山に変えるでしょう」。スワミ・プレマナンダは次のように答えました。「お前は、ここに金のために来ているのか、それとも、瞑想するために来ているのか?」その語調は、舌を噛み切ってしまえといわんばかりだと、その弟子は感じました!
翌日、私たちは、プリアンクラムにあるスワミジの二つ目の小さな素朴なアシュラムへと旅をしました。そこで、私が言及した帰依者が私に敬意を表する挨拶をし、こう言いました。「マタジ、スワミジがあなたの到着について私に話してから、あなたにお会いするのを待ち望んで、もう8年ですよ!」生い茂る草木の真ん中に位置していたそのアシュラムの雰囲気は、何らの近代的な快適さがないのを帳消しにする多くの愛と帰依心と平安がみなぎっていました。スワミ・プレマナンダの小さな部屋は、キッチンの後ろにありました。スワミジのベッドは、厚い板が脚代わりのレンガで支えられていました。スワミジは金や生活を快適にする設備や財産に完全に無関心であり、スワミジの若いひたむきさ、純真さ、自らの仕事への献身は非常に純粋であるので、彼の魅力に否応なしに惹きつけられてしまいました。スワミジの'イメージ'を損なう唯一の点は、顔の半分以上を覆っている濃いあごひげと口ひげでした。「あなたは、私のひげがお気に召さないのですか?」スワミジは私に、そのことについて批評するよう求めました。「ええ、私が剃って差し上げます」と私は言いました。

翌日の夜、私たちはジャフナに行きました。そこで、スワミジの到着を待っていたたくさんの人々に迎えられました。屋外でのスピーチで、私は、サイ・ヨガの創始者であり、サティヤ・サイババの非常に古い帰依者であり、アメリカにおけるヨガの女性第一人者であると紹介されました(私はロシア生まれですけれども)。翌日の夜、私がスワミジを紹介するとすぐ、スワミジは、アマンの大きな寺院で話をしました。そこでは、非常に敬意を示されました――道にドーティが広げられ、アラティがささげられ、花輪その他が捧げられましたが、スワミジはすべてを私と共同で受けることを主張しました。
話の最後に、スワミジは、手を振って空中から少しヴィブーティ(聖なる灰)を取り出して司祭に与えました。その後すぐに、手を伸ばす人々の人垣ができました。人々の渦からスワミジを解放するのに、数人の屈強な男たちが必要でした。

私がインドへ戻る日、スワミジは長い鎖の付いた時計とクリップを物質化してくれました。クリップは、私が時計を失くさないようにするためでした。私は自分の以前の時計を失くしてしまっていましたが、そのことをスワミジには一切話していませんでした。スワミジは、11月17日の彼の31歳の誕生日のためにすぐに戻って来てほしいと私に非常に優しく頼んだので、私は断ることができませんでしたが、それまでにもう10日もありませんでした。私は約束を果たし、スワミジの誕生日の前日にホワイトフィールドからマタレに戻りました。130人の人々がスワミジについて、誕生日の祝いが行われるジャフナまでの6時間の旅をしました。旅の途中で私たちが最後に立ち寄ったキリノチでは、大勢の人々がバジャンを歌うために集まりました。短いスピーチの中で、私は大勢の人々に、非常に帰依心のある人々がスワミジの誕生日にスワミジにおくることができる最高の贈り物は、人々が自らの悪い習慣を捨てることだと言いました。それを聞いたある男が、スワミジはお返しに神像を物質化するという贈り物をくださらなければとお願いしました。男はずっと言い張ったので、ついにスワミジは折れて手を振って女神の像を現しました。それを、スワミジが私に与えたとき、それはまだ温かかったのです。私が像をテーブルの上に置くやいなや、像を近くで見てその力に触れようとして、人々が巨大な波のように演台に押し寄せました。

私たちがようやくジャフナのアシュラムに着いたときはかなり遅くなっており、そこでは、大きな音楽隊がスワミジを待っていました。私たちは、お祝い用に飾られた大きなホールへ行くためジャフナの町に入りました。演台には、11人の司祭のブラーミンたちが火の儀式であるヤギャムを囲んでマントラを繰り返し唱えていました。翌日の朝の7時30分(スワミジが誕生した時間)に、数人の外国人の弟子たちと私が'ハッピー・バースデー・トゥー・スワミジ'を歌いに行ったとき、私たちは、スワミジがキッチンの後ろの貯蔵室の、祝宴のために調理されなくてはならない玉ねぎやじゃがいもやその他の野菜の山々の間にいるのを見つけました。一時間後、スワミジは行事のための二人の仏教僧侶たちにはさまれて、行列の先頭を歩き、儀式を行うために彼らは演台に上がりました。スワミジの病気の母親が、最初に、ミルクに浸した緑の草でスワミジの頭に油を塗りました。私は、彼女の次に同様のことを行い、それから、アシュラムの居住者たちが、スワミジがすっかりずぶ濡れになるまでスワミジの頭に水を注ぎました。食べ物が供され、出し物があり、祝賀会は、真夜中近くまで続きました。

ついに長い祝賀会が終わったとき、私は5人の外国人帰依者たちといっしょにサンドイッチを食べるためカーテンの後ろのテーブルについていました。そのとき、スワミジが簡素な木綿のショールを羽織って、私たちに加わりました。彼はそこで、自分の子供の頃のことを話してくれました。友達に、あらゆる種類のキャンディーや果物やその他彼が物質化したものを何でもあげたときのことを話してくれました。その当時、スワミジはなぜ子供たちが自分にお返しとして何もくれないのか不思議に思ったのです。なぜなら、スワミジは自分の天与の才が比類のないものであることをまだ理解していなかったのでした。その話は私たち外国人たち全員を驚かせ楽しませました。私たちにとって、それは誕生日の祝賀会のすばらしい終わりでした。

スワミジは数人のアシュラム居住者たちとともに毎週マタレからライトバンで旅し、いつも自分の時間を自らの3つのアシュラムに割り振っていたものでした。一人の帰依者がスワミジの誕生日に自動車を贈ることを申し出ましたが、スワミジは、アシュラムが必要とするのはライトバンで十分だと言って辞退しました。その男性が立ち去ったとき、スワミジの帰依者たちの一人が、次のように述べました。「私たちは時としてライトバンのガソリンのための金さえも持っていないのに、どうしてスワミジが車を受け取ることができたでしょうか?」彼の生き生きとしたユーモアのセンスを味わって、私たちは全員大爆笑しました。翌日、私はプッタパルティのサイババの誕生日に間にあうよう急いでインドへ発ちました。

スワミジはちょうどそのとき、同じやり方を続けるか決めるべき岐路に立っていました。それとも、そう、「霊性の信条や人種や肌の色を超えて、人々を、人生の霊性の側面を認識させ、愛と帰依心の生活を送る必要に目覚めさせるという彼の使命を持って出発す」べきかどうかと。私の意見では、アイスランドの新聞にスワミジの記事が載ったことがすでに第一歩であったと思います。まるでその問題に対する答えでもあるかのように、誕生日の祝賀会に出席した人々のうちの一人が、スワミジにフィリピンのマニラに来てくれるよう招待したのでした。「マタジ、あなたは私と一緒に来なければならない」とスワミは懇願し、「私は今まで大勢の人々と顔を合わせたことがない。これは、私が公衆の前に出る最初の機会だろう」。私は行けるかどうかわかりませんでしたが、スワミジが8年間も私を待っていたのだと言ったとき、やっと同意したのです。

スワミジが到着する前日に、私はマニラに着きました。私たちがスワミジを見つけに空港に入ったとき、スワミジは、まばゆいばかりに輝いて現われました――が、彼はあごひげを剃っていませんでした!私たちをもてなしてくれる主人の広い家では、30人ぐらいの人々がスワミジを歓迎するために部屋に集まっていました。私は、どうして誰かがハサミを一つ持って部屋に来たのか思い出せません――包みを開けるためだったと思いますが――しかし、スワミジはハサミを取りそれを私に渡しながら、こう言いました、「マタジ、カットしてください」。誰かがすぐに、私がスワミジのひげを切っているところを写真に撮りました。その後、スワミジは、入浴して着替えるために自分の部屋に入りました。ちゃんとひげを剃って、微笑みながら晴れやかに、スワミジが再び現われたとき、全員が驚き、あらゆる角度から一通り写真が撮られました。午後、記者とカメラマンがマニラの新聞社からやって来てスワミジにインタヴューしました。インタヴューの終わりに、スワミジは記者に十字架を物質化し、カメラマンにも(空中から取り出した)ヴィブーティを与えました。私たちのマニラ滞在中、連日、レセプションとスピーチと、インタヴューの連続でした。熱狂的な群集はスワミジに休む間を与えませんでした。私たちのプログラムのパターンは、いつも同じでした。まず、私がヨガとスワミ・ヴィヴェーカーナンダについて話し、その後スワミジを紹介し、スワミジの講話が英語に翻訳されました。ヒンドゥー教の寺院で、司祭たちと大勢の人々が、スワミジが空中からヴィブーティとクムクムを彼らのために物質化するのを見て驚きました。最後に、スワミジはムルガの像を物質化しました。会衆は、スワミジを帰さず、ヴィブーティを出してくれるよう懇願しました。スワミジは左右の手を動かし続け、その両手からはヴィブーティがこぼれ、大勢の人々がスワミジの手から流れ落ちてくる神聖灰を受け取りました。私たちがようやく車に乗り込んだとき、スワミジは起こったことを見たかどうか私に尋ねました。「ええ、あなたはヴィブーティを両方の手で出し、人々はそれを受け取りました」。スワミジは大声で言いました、「両手だけじゃない」。「両足もだ」とスワミジは興奮して言いました。そして、こう付け加えました、「そういうことができるなんて知らなかったよ」。

新聞は、スワミ・プレマナンダはマニラで大勢の人々に囲まれたと報じました。スワミジが出発した後、私は幾日か残り、ヨガについての公開会議をし、続いて三日間のセミナーをしてから、インドの家に戻りました。スリランカを再び訪れたのが、何の機会だったか、今私は思い出せませんが、しかし、その機会に、スワミジは丘の頂上に位置している土地の大きな建物を改装するのに忙しかったのです。その建物は瞑想のセンターとして役割を果たす予定でした。隣接した丘で、大きな家が建っている広い土地が売りに出されていたので、スワミジは、私がそこでヨガのセンターを始めてはどうかと言いました。とはいえ、これらの計画は1983年の民族的な衝突と混乱のため中断され、この衝突と混乱の最中に、スワミ・プレマナンダのアシュラムと瞑想のセンターは完全に破壊されました。スワミとアシュラムに居住していた帰依者たちは、インドへと旅立ちました。

(少しして、)スワミジは、バンガロールの近くのホワイトフィールドにいる私に会いに来ました。彼は、私の家に彼を尋ねてきた人々全員にアシュラムが破壊された経緯を話しました。しかしながら、スワミジがどのようにしてすべてを失ったかを説明しているときの、彼の表情に気づいて私たちは皆驚きました――彼のまばゆいばかりの顔には、悲嘆や悲しみの跡もなく、いつものように静かで微笑みを浮かべ、平安でした。

スリランカ政府がアシュラムを復旧することを申し出ていましたが、私はスワミジに、インドに別のアシュラムをつくり、問題が解決したときに、スリランカのアシュラムを再建することを提案しました。スワミジはインドのティルチーの近くに留まり、私は1984年のシヴァラトリまでスワミジの消息を耳にしませんでした。そのときまでに、私は夫とともにスリランカに引っ越しており、夫が適切な治療が受けられるようJ.ダサン医師の療養所の前に家を借りていました(夫は、右半身が麻痺する発作を起こしていました)。スワミジがもはやそこにいないと知りながらマタレで暮らすことなど、めったにありませんでした。私は、私を訪ねに来てくれた友人たちにアシュラムの廃墟を見せたものでしたが、そのようなときはなおさらでした。私たちは美しい全景を頂上から見るために車で山に行きました。そこは、かつて瞑想のセンターがあったところでした。

スワミジの帰依者が私に、スワミジがラーマクリシュナ・ミッションで祝われるシヴァラトリのためにコロンボにやって来ると教えてくれました。私はシヴァラトリに行きました。これについては、1984年3月18日日曜日のスリランカン・ウィークエンドから一節を引用させてもらったほうが良いでしょう:

[...短い中座の後、スワミジは大変な痛みと痙攣を経験していると、彼らは私たちに言った。次第に、会衆すべてがシヴァへの賛歌において一つになった。一時間後、スワミジは壇上に現われ、全員に歌い続けるよう頼んだ。その間に、何人かのボランティアがスワミジの足の上に置くためにきれいなハンカチを集めて回った。スワミはとつぜん立ち上がり、壇上で痙攣し始めた。私たちは、彼がたいそう痛みに苦しんでいるのがわかった。オーム・ナマ・シヴァヤの声音が勢いを増した。雰囲気が期待を帯びてきた。スワミは吐き気を示し、最初のリンガムとともに再び赤い色の液体が出された――リンガムは、約5センチの高さで尖端は液体で覆われていた。これを見た人々は、たとえ帰依者でない批判的な者たちさえも、この聖者に敬意を表するためゆっくりと一列に並び始めた。彼は居合わせた人々全員を祝福した。 ]

これが、私がこの前スワミジに会ったときのことでした。その年の12月に、私の夫はマタレで肉体を去り、私はプッタパルティへ旅した後、アルゼンチンのブエノスアイレスに移りました。ブエノスアイレスに着いたのは、1985年2月15日でした。私は、泥を固めて作った小屋のある土地を手に入れ、ゼロから始めなくてはならないと書かれたスワミジの手紙を受け取りました。同様に、私もまた、この身以外無一物のまま新天地アルゼンチンで、新しい生活を始めていました」。

マタジはここで口述を終えた。この物語は幾晩かかかって書き取られたものだ。マタジが口述を終えるとすぐに、スワミジはマドライ・ミーナクシの美しく強力な像をマタジのために物質化した。マタジはその像に感激し、その後はどこへでもこの像を持ち歩いていた。