問合せ (S.J.)
いつもありがたく拝読させてもらっています。私はシェア・インターナショナルの古い読者で秘教を学んでいるのですが、スワミジの教えに接するにつけ、これも配剤というのでしょうか、この関係も深めて行きたいと心から思うようになりました。サイトを見る限り、会員にならずとも、スワミジとの関係を維持するいくつかの方法があるようです。このことについて、光を当てていただけますか?
応答 (K)
S.J.さん。あなたが教えに接して、スワミジに心を向けたその時から、スワミジとして現れた神とあなたとの〔個人的な関係〕は既に始まっているのです。
一人の人間と神との関係は、完全に個人的なものです。
私達がこの個人的な関係を自覚した時は、他者や組織が割って入る余地は、そこにはありません。
この光の通路は光それ自体を基礎として自ずと拡大します。
いわゆる会員になったり外的なアシュラムに行ったりして、‘自分は(他者より)神とより近しくなった’と考えてしまう積年の心の癖は、その人が他者との関係性に依存しており、未だ未分化であり個人になり切ってはいないということを表しています。それは〈集団や組織あっての自分〉という未熟さの現われ、といっていいでしょう。学習の場であるスリ・プレマナンダ・アシュラムには、実際そのような未分化の西洋人達が多数集まっており、またそのような西洋人達が欧州各国にてセンターを開設しています。

あなたは学徒ですから、人が数十万転生の苦闘の末にイニシエーションの門に至り、その後数十転生で大師に至ることを学んでいるはずです。人類の大多数は、未だ入門遥か以前の段階です。

多数の未成熟の人間と、少数の成熟した人間。
多数の人々と、神に参入する準備のできた少数の人々。
多数の人々と、準備のできた少数の人々双方に等しく対する必要性に、如何に応えるべきか――。

私達がそういった人間の未成熟と成熟を理解した上で、神の祝福・恩寵を容易く受取れる手立てを、スワミジは用意して下さいました。それが神(アヴァター)への手紙なのです。あなたは自らの想念の核心(問題)を短文にしてスワミジに差し出し、自らは無我になって地上を生きることができるのです。無我に生きる、これが理想です。神と自分との間を隔てるものは何もない、これが理想です。ただ神のみがある、それが悟得した人間のあり方です。神への手紙の可能性です。

ここで、私達が師として仰ぐべき非常に進化した方、シュリ・オーロビンドについて話しましょう。

1900年代初頭、彼もまた政治犯として拘留されました。刑務所内で、彼は自らの内的な成長過程を見てもらう必要を感じ、インド精神を体現した霊性指導者、スワミ・ヴィヴェーカーナンダを自らの師と思い定め、師に集注しました。オーロビンドの強烈な熱誠に応え、ヴィヴェーカーナンダはオーロビンドの前にその姿を現したのです。ここに、他の何者も立ち入ることのできない、師と弟子の強烈な内的関係が成立したのです。霊的な太陽というべき大師の霊感は惜しげもなく弟子に注がれ、やがてそれは、弟子の畢生の大著サヴィトリー〈太陽神〉として結実する迄に至りました。

オーロビンドの例を見ても分かるように、高度に進化した方には、会員になることも、外的な組織も、アシュラムやら何処やらへ行くことも、一切必要ありません。いったん内的な関係が成立した暁には、手紙や音声による通信も不要です。師と弟子の間には、双方向の内的な、高度な精神感応が確立しているからです。弟子の臨在は師の臨在に同通するに至ります。昔から、この段階に至った弟子は、アシュラムから出て行くよう師から命ぜられることがしばしばでした。また弟子自ら、アシュラムを後にしました。

もうお分かりでしょう。外的なアシュラムを必要とするのは様々なことを学ぶ必要のある帰依者であり、大師や弟子ではないのです。

弟子以前の、様々な段階の帰依者は、それぞれの未熟さを抱えてアシュラムに集い来たり、自分がそれまでいた世間とは異なる霊性のリズムを体験し、それ故に学習し、大師の恩寵を吸収し、各自の場所へと帰っていきます。

メンバー制度があることも、努力せずとも大師に集注し同通している弟子の為ではなく、浮浪する想念を常とする多数者・帰依者の為にあるのです。大師に集注できない帰依者に対して、メンバーになったという事実を以て常に大師に心を向けるよう促しているのです。会誌の発行も、想念が大師に集注することを目的としています。

さあ、あなたの場合はどうですか? サイトが提供しているスワミジの教えを読み、手紙に自分の問題を記し、スワミジの祝福と導きをお願いすれば、それで十分ではないですか? 私達はサイト上の教えだけでも、既に十分な量を提供しています。
2010-08-03