プレマラヤム 第10回
―至高の悟りを得た女性聖者マニメカラ=\


今回は、仏陀出向以降の、九世紀初頭のインド全域を殆ど仏教一色に染めるまでに影響を与えた女性聖者、マニメカラについて、大聖は語られます。ここで大聖は、何故ヒンドゥー信仰の中心国家に仏教が興隆しなければならなかったか、その神の目的を明かされます。
至高を目指す人間は、マヌ・ダルマの女性に対する疑念に端を発して誤った信仰に陥ってしまったヒンドゥー教を直視し、正すべきであると、大聖に告げられます。
そして女性は、マーヤを顕すことなく、すべからく聖母の化身たるべきと、大聖は述べられます。

ブッダは、ブラーミンの家庭に生まれた。彼は王であった。彼は王族の一員だった。ブッダが広めた教えを仏教と呼ぶ。彼は、「マイトリ・バーヴァナ」および「ヴィダルシャナ・バーヴァナ」と呼ばれる瞑想について非常に美しく説いた。誰でも瞑想できる。しかしながら、王であって、森に行って暮らし七年間瞑想することは、あまり簡単ではない。ブッダは、森の中で深い瞑想状態にあった。彼は、何も食べ物を食べなかった。彼は死に近づいていた。その時、女王がやって来て彼にいくらかの食べ物を与えた。彼はその食べ物を食べた後、悟りの境地に達した。その女王はブッダに、朝、食べ物を供した。今日でも、仏教徒は午前11時30分までに食べ物を摂るよう助言されており、その後は彼らは食べる必要がない。それがブッダの教えたことであるが、しかし、あなたたちはひたすら食べ続けている。中には、日に五回食べる者たちもいる。肉体がこの地上で生きるためには、日に二回食べれば十分だ。二度目の食事を取った後は、もう食べる必要はない。あなたは、もし本当に必要な場合は、汁の多いココナッツの水といった、いくらかの液体を摂ることができる。自らを仏教徒と称する人々は、今日それに従っているか?いいや、彼らのうち数多くの人々は、それに従っていない。ヒンドゥー教はインドに起源を持つ。インドとヒンドゥー教は同義だ。そのような国において、ブッダは、国全体を仏教に改宗させた。彼は、カシからカンニャクマリまでインド中を歩き、人々に仏教について教えた。当時インドを支配していた諸王たちは、仏教に改宗した――このことすべては、約2,500年前に起こった。今日、インドの至る所に、ブッダの像がある。

かつてコヴァランという商人がいた。彼には、妻と愛人が一人いた。コヴァランの愛人マダヴィは、マニメカラという女の子を産んだ。マニメカラは非常に美しい女性に成長した。ある日、彼女が寺院のプージャのために花を摘んでいると、王子が彼女を見初め、彼女と結婚したいと思った。今日はブッダプールニマなので、私は、あなたたちに、ブッダについて話しているのだ。私はあなたたちに、どのように仏教がインド中に広まったのかについて話しているのであり、どのように仏教はスリランカを通して広まったのかについて話しているのではない。なぜなら、仏教はスリランカにおいて広まったのとは異なるやり方で、インド中に広まったからである。インドの諸王の一人アショカ王は、ブッダに非常に帰依していた。彼は、ブッダがそこでサマーディを達成したブッダガヤの元の菩提樹から枝を折り取り、それをスリランカに持って行って植えた。その枝が根付き、木に成長し、今日でもそこにある。インドの人々は、その下でブッダが瞑想したブッダガヤの菩提樹を大事にしなかったため、その木は枯れた。したがって、その木が枯れたとき、彼らは、ブッダガヤからスリランカまで行って、スリランカのその木つまり、アショカ王が植えた木の枝を持って来て、ブッダガヤに再び植えなければならなかったのだ。

私は1983年に最初にインドに来たとき、その元の菩提樹が枯れる前に、その枝をここに持って来てアシュラムに植えた。今その木は、樹齢約十六年か十七年だ。その木は植えてから最初の五年間はあまり成長しなかったが、今やそれは、非常に大きく育っており、非常に美しい。

では、マニメカラに話を戻そう。王子は、自分と結婚させようとしてマニメカラを苦しめた。王もまた、彼女は王子と結婚すべきだと言い、そうでなければ彼女は殺されるだろうと言った。彼女は結婚したくなかったので、当時のあらゆる偉大なヒンドゥー教の聖者たちのもとへ行き、サンニャスの入門式を与えてくれるよう頼んだ。これらの聖者たちは、ブッダがサマーディに入ってから一千年以上経た、約八百年頃に生きていたアルワルたちやナヤンマルたちだった。ヒンドゥー教徒は誰一人として、彼女が霊性の道に従うことを許さなかった。こうしてマニメカラは、ブッダのヴィジョンを見、教えに従って直ちに頭を剃り、仏教徒になったのだ。王子と王は、マニメカラが仏教に改宗したのを知るや否や、彼女を逮捕しマドライの刑務所に入れた。彼女は、刑務所の中にいる間、深い瞑想に没入し、そして偉大な書、詩歌「ブッダ・カーヴィヤム」を書いた。ヒンドゥー・カーヴィヤムは、男性聖者によって書かれた。マニメカラのブッダ・カーヴィヤムは、その偉大なるヒンドゥー詩歌に匹敵する。

彼女が「ブッダ・カーヴィヤム」を書いた後、数多くのインド人たちが仏教に改宗し始めた。その当時、アディ・シャンカラも存命だった。アディ・シャンカラは、インドがヒンドゥー教国であるにもかかわらず、ヒンドゥー教徒たちが自らの宗教を捨て去ろうとしていることを心配した。彼は、ブッダでさえヒンドゥー教徒に生まれたのだとインドの人々に教え、人々にヒンドゥー教について教えながら、カシからカンニャクマリまで旅した。聖者アディ・シャンカラは、聖なる母を拝礼し、仏教をインド中に広まらせないよう、ヒンドゥー教を広く行き渡らせるよう彼女に頼んだ。聖なる母は、彼にダルシャンを与え、彼にこう尋ねた。「では、あなたは、私に何をしてもらいたいのですか?」 アディ・シャンカラは、「私は、カシからカンニャクマリまで歩くつもりです。私の願いは、あなたが常に私の後ろを歩いて下さることです」と言った。彼女は、こう言った。「私は、一つの条件付きであなたの後ろを歩きましょう。どの地点であろうと、もしあなたが振り返って私を見たら、私はそこで止まり、さらに先には歩かないでしょう」と。聖なる母がそうおっしゃるなら、私はそのようにしようと考えながら、シャンカラは、即座にその条件に同意した。シャンカラは歩き始め、そうして聖なる母が彼の後ろを歩き始め、彼女が歩くと、彼女のアンクレットの音が聞こえた。最初の三日間、アンクレットの音が聞こえたが、しかし四日目にはもはや、その音が聞こえなかった。彼は、なぜもう彼女のアンクレットの音が聞こえないのかと混乱したが、彼は、さらに数日間歩き続けた。九日目、彼女のアンクレットの音がもう聞こえなかったため、彼は聖なる母が彼の後ろを歩いているかどうか振り返って見ずには、これ以上歩くことはできないと感じた。彼が振り返るやいなや、聖なる母が彼の後についてきているのを彼は見た。彼女はこう言った。「おお、息子よ、あなたは振り返って私を見てしまいました。ですから、私はここで止まります。これが、私たちが一緒に行くことを同意した条件です」と。ムカンビケ寺院は、彼女が立ち止まったまさにその場所に建てられたのだ! シャンカラは泣き出したが、母はこう言った。「私の恩寵は、常にあなたと共にあるでしょう。ですから、あなたはさらに先へ旅することができます」。こうして彼は旅を続け、聖なる母について人々に教え続けた。当時、インドは仏教国であるとまさに宣言せんばかりになっていたが、アディ・シャンカラの働きのお陰で、ヒンドゥー教は再び盛んになり始めた。今日、8カ国が仏教国であると宣言している。スリランカは仏教国であると見なされている。世界の中で45カ国が、キリスト教国として宣言したことになるだろうし、55カ国がイスラム教国とうたわれている。ネパールはヒンドゥー教国としてうたわれていた唯一の国であった。君主政治が廃止され、政府が引き継いで以後、ネパールもまたさまざまに異なる宗教が実践される国としてうたわれている。では、ヒンドゥー教国としてうたわれているのはどの国なのか? 一つもない。インドは、数多くの異なる宗教に従っているので、ヒンドゥー教国としてうたわれていないのだ。

基本的に、どんな宗教がどのように始まったのかは重要ではない。重要なのは、あなたが従うやり方なのだ。一人のタミル人の少女が、「ブッダ・カーヴィヤム」を書き、今、あなたたちもまた、それを英語で読むことができる。ブッダがヒンドゥー教を捨て、マニメカラが仏教に改宗し「ブッダ・カーヴィヤム」を書いたのは、ヒンドゥー教の人々が陥っていた愚かな誤った信仰のせいだった。ブッダは、それを止めたかったのだ。マニメカラがヒンドゥー教を捨てたのは、その伝統的な教えによれば、女性は瞑想することができないし、霊性の道に従うことができないとしていたからだ。古代ヴェーダの中で最初に書かれた本は、マヌ・ダルマと呼ばれている。それによれば、女性は出家者になることができない。その本は、男性は常に女性の霊的向上の原因となっている一方、女性は男性を牢獄の中に閉じ込めたままにすることしかできないと述べている。その本は、女性がマインドの成熟した状態を発現するのは非常に困難であり、女性は決して他の女性を信用しないだろうと述べている。マヌ・ダルマは、女性のすべての性質を論じている。それは、非常に伝統的な本だ。それは、男性のホロスコープを研究すれば十分であり、女性のホロスコープには何も重要なものはないだろうから、女性のホロスコープを研究することには何の意味もないと述べている。マヌ・ダルマは、たとえあなたが女性のホロスコープを見てそれについて話しても、彼女たちは発達しないだろうから、それを調べることに何の意味もないと述べている。マヌ・ダルマはまた、この大地が創造された日からそれが滅びる日まで、霊的に発達した女性がかつて存在したと言うことはできないだろうと述べている。マニメカラは、仏教において至高の境地を達成した。彼女は、どのようにそれを行なうことができたのか? 女性たちは、霊的に発達することができるのだ! しかしそうある為には、女性たちは、〈自分は神聖発現を人生の至上とし、心中孤高の内に、ひとり、霊的に発達できる〉という断固とした確信を持たなければならない。もしあなたが一人の少年を見てくすくす笑い出すなら、そのとき、神聖発現の確信は消しとんでしまっている。マヌ・ダルマは、すべての女性はマーヤであり、〈他者に依存する〉彼女たちのマーヤはすべてのものを魅惑していると述べている。マヌ・ダルマは、なぜ女性たちは常にマーヤを演じ〈関係性の中に男性を貶め〉ているのか、彼女たちはどのようにして霊性において発達するつもりなのか、と疑問を投げかけている。

あなたが霊性の道を進みたいなら、そのとき、あなたはそのマーヤつまりそのドラマを止めなければならない。あなたは、泣き出すこと、演じること、見せびらかすこと、感情的であることを止めなければならない。あなたは、「私は非常に愛情深いが、しかし誰も私に対して愛情深くない!」と考えることを止めなければならない。(女性が他者との関係性という世界観以外夢想だにせず、その中で他者に依存して喘いでいる自分は、可哀想な人間なのだという)それは、マーヤなのだ。それは、マヌ・ダルマの中で述べられていることだ。私はあなたたちすべてに、聖なる母のようになって欲しいのだ。そのような訳で、私はあなたたちに教えているのであり、だから私は「このように振舞ってはいけない、こんなふうに演じてはいけない」と言うのだ。それが、私があなたたちに教えていることなのだ。マヌ・ダルマは女性たちをずっと批判してきているため、私はいつも、私の言うこと(女性の神聖開顕)に従うよう、女性たちに非常に厳しく言う。あなたたちは、マヌ・ダルマを英語で読むことができる。今日、インドでは、ブラーミンの男性はローブを受け取ることができるのに対して、ブラーミンの女性は受け取ることができない。なぜなら、彼らは依然としてマヌ・ダルマに従っており、(マヌ・ダルマには)女性たちはマーヤであると記述されているからだ。あなたたち一人一人が、自分自身について注意深く考えるべきであり、自分がマーヤを持っているかどうか熟考すべきだ。そうだ、あなたたちはマーヤを持っている。偉大な聖者たちが、このことをずっと書いてきている。太陽、星々、月についてすべてのことを発見した聖者たちが、このことについてずっと書いてきているのだ。もし私が、このアシュラム居住者を叱るなら、彼女は自分の内にマーヤを持っているため泣き出すだろう。あなたたちは、今私を罵ることができるが、私は決して泣かないだろう。私は刑務所の中にいるが、そのことについて気にしていない。私に対する数多くの訴訟があるが、そのことすべてについて私は気にしていない。

すべてのことは、神の御心に従って起こっている。女性たちは、すべてのことは神の御心に従って起こっているということを決して受け入れないのに対して、男性たちは、すべてのことは神の御心であるということを受け入れることができる。あなたたちは、しゃべって他の人々の邪魔をする。あなたたちは、瞑想の邪魔さえする。

賢者ヴィシュワミトラは、苦行中だった。メナカという一人の女性が彼のところに行って、ヴィシュワミトラの目の前で踊り、彼の瞑想を邪魔した。彼はクシャトリヤだった。彼は非常に強い男だった。彼はマーヤによって罠にかかることはなかったが、しかし、メナカは彼を世間並みにしてしまった。あなたたちはこう考えるべきだ。「スワミは偉大なる聖者であり、瞑想している。だからスワミを発達させましょう。私たちは、自分たちのマーヤをスワミに見せるべきではない。スワミ・プレマナンダは霊性生活を送っている霊的な人だ。だから私たちは、私たちのマーヤ‘無用なドラマ’を見せることでスワミを邪魔すべきでない」、というように。私は六十歳近いが、それにもかかわらず、人々は依然としてやって来て自分たちの’マーヤ・ドラマ’を私に見せる。そのことは私に、マヌ・ダルマには一理あると考えさせる。私は、少なくとも女性を一人は至高の霊性の境地に至らせようと努めてきたが、しかし、私はそれを達成できていない。私は、六十人のさまざまな女性たちを教え、彼女たちを至高の頂きに至らせようとしてきたが、しかし、それは功を奏していない(訳注:弟子である御二人のマザーを除き)。私は真実を話している。私がこの帰依者を見ると、私は、彼女を本当に好ましいと感じたものだった。なぜなら彼女は、自分の中にマーヤを持っていなかったからだ。それは、偉大なる贈り物だ。彼女はマーヤを演じたりしなかった。彼女は非常に純粋だった。私は、この少女を変容させようと努めたが、しかし、彼女は今マーヤでいっぱいだ。私は気が変になりそうだと思ったよ! 私は、なぜあなたたちがあなたたち女性本来の性質を理解していないのか、なぜあなたたちが自分自身を理解していないのか、わからない。

私は、あなたたちに大切なことを言いたい。女性たちにできないことは何一つない。女性たちは悟りを達成することができる! 女性たちは、より高い境地に至ることができるし、すべてのことを行うことができるのだ! しかしその前に、あなたたちは、自分の内側にあるマーヤへの執着を放棄すべきだ。マーヤは、あなたたちの知らぬ間に、あなたたちの内側に住みついている。私は、このアシュラム居住者に対して何か個人的な怒りを持っているか? もし彼女が誤りを犯すなら、私は彼女を叱るだろう。(師の叱正によってマーヤが破壊された)彼女は「はい、グルデーヴァ」と言って、微笑んで立ち去るべきなのだ。しかし実際は、私が彼女を叱ると、(自己同化したマーヤが破壊されまいとして)彼女から即座にマーヤ(怒り)が飛び出てくる。それは、決して起こるべきではない。あなたたちは、こう考えるべきなのだ。「師が私たちの間違いを指摘したことで粗捜しをしているのだと考えるなら、そう考えることも私たちのマーヤ(謬見)なのだ。師は、私たちに対して、粗捜しをしているのではないのだ、私たちはこの肉体にあって数多くの不備を持っている、その不備が、師の言葉によって浮上させられ、破壊されるのだ。師は、人々を変容させようと努めているのだから、私たちは自らを完全に師に明け渡そう。師は自らの教え(と、教えの実質であるエネルギー)を私たちに分け与えようとなさっているのだから、私たちは、師を理解しようと努めなければ」と。

ジェイ・プレマ・シャンティ!

2010年、ブッダプールニマのサットサング