プレマサーダナ 2010年8月号

今回の法話でスワミジは、私たちが何事であれ物事を達成したいなら、わき道に逸れることなく、達成を強く望み、迷うことなくそれを実践しなくてはならないと強調されます。私たちは短い人生の時を有効に使い、なぜ私たちの人生が次から次へと繰返されるのかを、自らに真剣に問うべきと、スワミジは強調されます。ユーモアを交えながら、スワミジは、今や人生を成就させる手立てが神によって用意されている中で、徒に時を浪費している私たちの今の姿を明らかにしています。


―――人生の時と、人生の成就と、人生の浪費と―――


―――スワミ・プレマナンダは、一つの場所から別の場所へ即座に移動することができる。もしスワミ・プレマナンダがこれを行なうことができるなら、それはこの(スワミジの隣に座っている)帰依者が、自分はスワミジと同じことをするのだと思い浮かべるだけで実際それをすることができる、ということを意味するのか?

もしこの帰依者がそのレベルに至りたいなら、彼女は自分を準備しなければならない。彼女は私のもとにやって来なければならないだろうし、私は彼女に、教えなければならないだろう。もしあなたがそのような知識を習得したいなら、あなたは今楽しんでいるある程度の快適な生活を失わなければならないかもしれない。したがって、何かを得るために、あなたは多くの物を失わなければならないだろう。

しかしながら、あなたたちは何も失いたがらず、それなのに、あなたたちは、依然として何かを当然得るべきだと考える。

あなたたちは悟りを達成したい。これは起こるだろうか? 自ら考えなさい。私があなたたちに言っていることは何でも非常に深い意味があるのだ。あなたたちが把握することができるよう、私は非常に簡単に伝えているのだ。

もしあなたがバジャンをうまく歌いたいなら、あなたは自分の声を発達させなくてはならない。瞑想のやり方は数多くある。そこで、もしあなたが瞑想に関心があるなら、あなたはどの瞑想の形式に従いたいのか選ばなくてはならない。ヴィパッサナ瞑想、超越瞑想、オショー瞑想などがある。最も速い直行の瞑想は9,000ドルの悟りの道だとあなたたちは思うのか? 帰依者の中には非常に愚かな者たちもいる。彼らはスワミを知っており共に時間を過ごしてきたにもかかわらず、あちらこちらに行って他の教師たちを探し、瞑想のテクニックを習うために彼らに大金を払っている。あなたたちは瞑想の基礎を知っているのか? あなたたちは瞑想している間、踊ることはできない。あなたたちは瞑想している間、食べることはできない。あなたたちは一箇所に静かに坐り、自分の諸想念をコントロール下に置かなくてはならない。私たちが自分のマインドを自由にするとき、瞑想は自動的にやって来る。あなたが5,000ドル払おうが、あるいは5セント払おうが、結局のところあなたは、坐って自分の諸想念をコントロール下に置かなくてはならない。単にあなたは瞑想を学ぶことによって瞑想できるようにはならないのだということに、気づくべきなのだ。学ぶのは、単に方法に過ぎない。あなたは実践的でなくてはならない。

ここの一人が、歌のレッスンを受け、バラタ・ナティヤム(南インドの古典舞踊)を勉強するためにポンディシェリーに行くことになっている。ただそのレッスンに出席したからといって、彼女は上手な歌い手あるいは上手な踊り手になるだろうか? 彼女の側に関心がなくてはならない。彼女は自分の声を良くすることができるよう、まず歌い方を知り、歌いたいと願わなくてはならない。

もしあなたが本当に瞑想に関心があるなら、そのとき、私はあなたにやり方を示すことができ、そのとき、あなたは進歩することができる。もしあなたがただ座って、自分は瞑想を行なうことができるのだと考えるだけなら、それは役に立たないだろう。

もしあなたがアビシェカムを正しく行ないたいと思うなら、そのときあなたが持っていなくてはならない資質がいくつかある。まずは帰依心――自らの行いを神に奉げようと決心した心――である。アビシェカムはただ神像に水を注ぐことではないのだ。あなたは適切なマインドの状態を発達させなくてはならない。あなたたちが神像の上にミルクを注いでいるとき、あなたたちの諸想念は一点に向かっていなくてはならない。あなたたちは皆、これに従っているのか? アビシェカムは、それに必要な思い入れのない儀式になってきている。アビシェカムが始まる前に、すべてのものが用意されているべきである。あなたはアビシェカムの途中で、(アビシェカムに必要な)物を所望するべきではない。あなたはマインドを一点に集中させた状態にあるべきであり、アビシェカムを正確にかつ帰依心を持って行なうべきである。あなたはアビシェカムを行っているとき、周りにいる人々を意識すべきでない。あなたはただ、アビシェカムの中で自分が行なっていることだけに気づいているべきなのだ。あなたがガネーシャ・アビシェカムを行なっているなら、あなたのマインドの内にある唯一の想念はガネーシャのことであるべきなのだ。あなたが真の感情とバクティを持ってアビシェカムを行うとき、そのアビシェカムを初めて見る人々は、アビシェカムの所作から生じる強力な波動を感じることができるだろうから、きっと震えがくるだろう。その神への絶対的な集中がその神に由来する波動をあなたにもたらす。マントラを唱えている人々から生じる波動もまた存在する。あなたたちがアビシェカムを行なっている間、三つのタイプの波動がそこに存在するだろう。その神からの波動、あなたたちからの波動、それからマントラを唱えている人々からの波動である。このようにアビシェカムは行なわれるべきなのだ。あなたたちは、単にマントラを声に出して言い、アビシェカムを行き当たりばったりに行なうべきではない。

私は、あなたたちにこれらのことを言うことができるが、しかしあなたたちは、そのアビシェカムを行なわなくてはならない。私はあなたたちに瞑想について言うことができるが、しかし、あなたたちは、その瞑想を行なわなくてはならない。

私は、人間たちが神へと旅するために道路を作ったが、しかし私は、その上を動物たちが歩いていることに気づく。私に何ができよう? 動物たちは棘や石ころの上や、生い茂った密林よりも、道路を歩いた方が良いことを知っているようだ。人々は近道を見つけることを期待して、その道から外れて脇道に入り込んでしまっている。道に沿って歩む必要がないよう、誰もが近道を探している。今やわたしたちには、ショートカット(近道)の霊性がある。ショートカット(近道)の悟り。ショートカット(近道)の瞑想。ショートカット(近道)のアビシェカム。そのような訳で、わたしたちの服さえショートカットに(丈が短く)なりつつある。時が経てば、わたしたちは服さえ持っていないかもしれない。誰が知ろう? 太古の昔には、人々は服を着ていなかった――おそらく、わたしたちは、その時代に帰るのだろう!

グルたちのみが道を指し示すことができる。進歩はあなたたちの手の内にある。進歩はあなたがどれほど関心を持っているかにかかっている。あなたたちは自分自身にこう問わなくてはならない。「私はどのような状態にあるのか? 私は誰なのか? 私の関心はどこにあるのか?」と。

あなたたちは自分がなぜ生まれたのかについて考えなくてはならない。胸に手を当て、この問いを自分自身に問いなさい。自分はどのくらいの間この世界に生きるだろうかと、自分自身に問いなさい。もしあなたがこれらの問いに答えることができるなら、そのとき、あなたはもはやどのような問いも問う必要はない! あなたの人生は過ぎ去りつつあり、あなたは何の問いも問うてはいない。あなたたちは人生の目的を問うことなく、自分はなぜこの地上にいるのかを問うことなく、ただ生活を続けている。あなたたちは、自分はなぜここにいるのかについて深く考えることなく、ただ自分の思うままに物事を行なっているだけだ。


ジェイ・プレマ・シャンティ!

スワミ・プレマナンダ