プレマサーダナ 2010年9月号
参集者の四つのカテゴリー
―― T.――
修練と、自己信頼

この頃では、霊性について無数の本が書かれている。たとえそれらの本をすべて読んだとしても、彼らはそれを体験することができない。本の知識は、体験によって得た知識には及ばない。体験を通して得た知識は、本から得た知識とは100パーセント異なる。本から得た知識があることは良いのだ。あなたはそれを体験したくなる。本を通して、あなたたちはその本に書かれていることを知り、それを読み知識を得る。しかし、本から得た知識をあなたの体験として考えたり話したりしてはいけない。それは間違っている。本の知識は、そのようなものが存在するということをあなたが知るようになる知識なのだ。パイナップル、リンゴ、パパイヤ、マンゴーといった果物の写真を見て、『今や私たちはこれらの果物を味わったのだ』と、私たちは考えるべきではない。写真を通して味わうことができるか? 写真のバナナを見て、あなたはそれを味わうことができるか? それとも、バナナを食べることによってそれを味わうことができるのか? だから、見ることは食べることになることはないのだ。あなたたちは、このような本からの知識を通しては、読者のままにとどまり、体験する者になることはできない。そのような訳で、あなたたちには体験者になってもらいたいし、私はあなたたちにはっきりと説明しているのだ。

では、あなたが写真で見ることのできるマンゴーとは、どのようなものなのか? それはよく熟しており黄色い色をしている。写真の熟したマンゴーを見るということ、それは、あなたたちもまた熟したマンゴーなのだということを意味するのか? あなたたちは、写真を見ることによってその熟したマンゴーを味わうことができるのか? あなたたちは、そのマンゴーの特徴を知ることができるのか? あなたたちは、そのことから何も知ることはできない。あなたたちが、もしそのマンゴーを食べるなら、あなたたちは、それが甘くて美味しいことを知るだろう。あなたたちの霊性もそれと同じだ。あなたたちはどうなのか? 霊性は、大海だ。霊性は数多くの本に書かれており、数多くの見解があり、数多くの基礎がある。あなたたちがこれらの本すべてを読むとき、それはすばらしく、あなたたちはそれを味わったかのような気がする。霊性の主題はそのように、あなたたちが味わい学んだかのようなものなのだ。それは、あなたたち自身が味わったことに相当するのか?

子供たちよ、あなたたちは一つのことを理解すべきだ。この世界において、マーヤはあなたたちを惹き付けている。なぜ、これはあなたたちを惹き付けているのか? なぜなら、あなたたちはマーヤを好きであり、マーヤもまたあなたたちのことを好きなのだ。

マーヤ、マーヤ、マーヤ。
「このマーヤが私を愛し、私はマーヤを愛す。私がマーヤにキスすると、マーヤは私に数多くのキスを返す。しかし、私は霊性にキスしなかった、私は霊性を得なかった、そこで、霊性もまた私を愛さなかった。」
あなたたちはそのような段階にある。なぜか? あなたたちは偽りの物にキスしているが、真実にキスすることができない。そのキスは物質的なキスだ。霊的なキスとは、あなた自身を忘れ、あなたのハートを込めて神のことを思い、神を抱きしめることをいう。あなたたちは神を抱きしめキスすることができない。それは、なぜなのか?

あなたたちは、彼を見ることができない。「私は、そのこと(神)を理解することができない。私は、この世のマーヤへのキスを見て、欲望してしがみつく。これより他に、どんな方法があるというのか? あれ(神)は、永遠であり、これ(マーヤ)は永続しないものだ。私のマインドは、永続するものを好まない。」そのようにあなたたちは、束の間の儚いものしか愛さない。あなたたちは美しい車を欲しがる。あなたは美しいボーイフレンドを欲しがる。
美しい、美しい、美しい。美しいドレス、美しいイヤリング、美しいものすべてを欲しがる。美、美、美、外側の美のみを欲しがる。

美、美、美、ハートの内の美、あなたたちは、内側にあるその美を作ることを知らない。誰がそれを見るのか?この内側の美すべてを見るのは、あなただけであり、私は見るだろう、神はそれを見るだろう。この美は、この三者だけのものだ。この内側の美は、あなたにとって、あなたの師にとって、そして神にとってのものなのだ。外側の美は、数多くの人々が見るだろう。あなたのマインドは、このように美しい車、美しい家と、外側を走り回っている。あなたたちは、美しい物すべてを欲しがる。「ああ、師よ、私はどこにいるのか? 私は、この外側の美に夢中だ。いつ私は、この外側の美から脱するのか? この外側の美を見ている人よ、あなたは、私の肉体を見て私の肉体を利用し、それからそれを投げ捨てるのか? そのように、’私のマインド’は外側の美を愛する。」

愛には三つのやり方がある。あなたたちは時間を無駄にしている。
あなたとは何なのか? 師とは何なのか? 神とは何なのか?

(ここで、自覚の無いまま人類想念を受信してそれを再生するだけの、模糊とした自己意識しか持たない多数の参集者たちを、スワミジ自ら描写して)

「おお師よ、私はどこにいるのか? おお師よ、私はどこにいるのか?」
「私たちは師が欲しい、私たちは師が欲しい」。しかし、何のための師なのだ?
「私たちは霊性の師も欲しい。」なぜだ? どのような理由なのか? どのような目的のためなのか? あなたたちは、現代風の師が欲しいのか?それとも、ただ私にも師がいるんですと言うためか? それとも、ファッショングルなのか?

(次に、心境が進み自己参照が可能になった人間が遂に、自らを訓練してゆこうと考え始めた様をスワミジ自ら描写して)

「おお師よ、私は師を知りたい。私は、私の師を理解したい。彼を通して、私は霊性を学ばなければならない。彼を通して、私は悟りを達成しなければならない。私は、自分が持っているものを取り除かなければならない。私は、自分が持っているカルマを取り除かなければならない。私は、自分の言い訳すべてを取り除かなければならない。私は、自分が持っている私の嘘すべてを取り除かなければならない。私は、自分の誕生の意味を理解しなければならない。私は、自分がなぜここに来たのかを理解しなければならない。なぜ彼は、このことを私に教えないのか? 私はいつの日か死ぬだろう。私が死ぬ前に、なぜ彼はこのことを私に教えないのか?」

なぜなら、誰も私に尋ねないからだ。これが私のハートの中にある気掛かりだ。彼らは金を願う、彼らは苦しみがなくなるよう求める、彼らはあれやこれやを求める、しかし誰一人として、‘自己知’を求めない。あなたたちが求めないのに、私がこれについて教えることができるか? どのようにして教えるのか? もし私があなたたちを教えるなら、それだけでは十分ではないのだ。あなたたちは、非常に個人的なそれぞれ独自のやり方で、(自己知の修練の過程で)本当に自信を持たなければならないのだ。あなたたちは、もっと自信を持たなければならない。(人類想念を打ち負かす程)あなたの自己信頼は、強くなければならない。もし(そうでないなら)誰かがあなたを見て、あなたは狂人だと言うなら、あなたは傷つくだろう。「私は狂っているのか?」マインドは「ノー」と言うべきなのだ。しかしマインドはそう言わず、「私は狂っているのか」と考える。「私は気難しいのか? 私は汚い男なのか?」マインドは「ノー」と言うべきなのだが、そう言わないのだ。「私は嘘をついているのか?」と、マインドは疑いを差し挟む。


スワミ・プレマナンダ

< 2008年3月、マハシヴァラトリ >
‐この法話はスワミジのタミル語を聴聞参照して起草したものであり、会誌掲載されたものと、差し替えたものである‐