大聖の生涯


大聖自らを語る


第一章 私の若い頃


家族の系譜
 私の父方の祖父シヴァサミ・マラヴァラヤールと祖母シーランガムは、南インドの中心にあるタミル・ナドゥ州のタンジャヴール県パパナサム市のバラタマンガラムで生まれ育った。私の父ソマスンダラム・マラヴァラヤールもまた、そこで生まれ育った。1924年、父が青年だったとき、彼は商売上のことでスリランカへ行った。父はそこに留まることを決め、スリランカのテルテニ県ヴァツムーライに定住した。彼は商売を始めて成功し、順調だった。

 私の母方の祖父はタミル・ナドゥ州のタンジャヴールで生まれた。彼はパキリサミー・エラムダヤールという名だった。彼もまた、商売をするためにスリランカへ行き、マタレに定住した。マタレはスリランカの中央山岳部に位置している。自然な丘に囲まれ、川やきれいな泉のある鄙びた環境である。すばらしい香辛料と強大な聖母マリヤンマの寺院で有名である。私の祖母タイヤール・ムタンマルは、スリランカ北部のジャフナ県チャンギリバイで生まれ、後にマタレへ移り住んだ。祖母とパキリサミーには、一人娘のプシュパカンティと、マイルヴァガナムとポンヌツライという二人の息子がいた。プシュパカンティは、マタレ県マンダンダウェラでソマスンダラムと結婚した。彼らには四人の息子と三人の娘がいた。私は彼らの三番目の子供だった。


祖母とスワミ・パラマグル
 私の祖母ミセス・タイヤール・ムタンマルがジャフナに住んでいた少女の頃、スワミ・パラマグルとして知られている聖者のことを彼女は聞いた。スワミ・パラマグルは、南インドで生まれ育ったが、スリランカで晩年を送っていた。祖母はスリランカのキーリマライで初めてスワミ・パラマグルに会った。少し経って、スワミ・パラマグルはマタレにやって来て、街にアシュラムを建て、そこに留まった。彼は、悟りを得た聖者、「シッダ」(完全なる人)だった。彼は、いつも腰の回りに緑色の布を着けていた。彼は、マンダンダウェラにある自分の小さなアシュラムをめったに離れなかった。彼はいつもほとんど一日中じっと座っていた。キング・ヤム・フルーツの紫色の果肉か、ムング豆を食べることしか好まなかった。他には何も食べなかった。その当時、名の通った政治指導者であるポンナムバラム・ラマナタン氏がスワミの熱烈な帰依者となり、スワミについての本を出版した。スワミのサマーディ(肉体の死)後、ラマナタン氏は北インドのカシからシヴァリンガムを持ってきて、聖者の肉体が埋葬されているところの上にそのリンガムを置いた。スワミが偉大な聖者であったことを知っている、あらゆる宗教のスリランカの人々が(墓所を象徴する)リンガムのダルシャンにやって来た。
 これは、まったく普通のサマーディ廟などではない。大勢の帰依者のいるところで、スワミ・パラマグルが同時に二つの場所―――マタレとジャフナのキーリマライ山の麓―――で肉体を離れるのが目撃された。彼の二つ目のサマーディ廟はジャフナのキーリマライ山の麓に今もなお見つけることができる。

 まだ少女だった私の祖母が帰依者として毎日の礼拝にやって来ていたのは、この高齢の全知のスワミだったのだ。祖母はアシュラムでの小さな仕事をしたり、スワミが非常に好んだ紫のヤムを調理したりして、スワミに奉仕していた。ある日、スワミジは私のおばあちゃんにこう言った。「おまえは、十六歳で結婚し、三人の子供を持つだろう。おまえの一人娘は七人の子供を産むだろう。その三番目の子供は男の子だが、その子は太陽という名前で呼ばれるだろう(私の実名はプレム・クマールだが、私の愛称は「太陽」という意味のラヴィだった)。この子は神聖な力と霊的な知識を持ち、それらはこの子が十七歳のとき顕著になるだろう。彼は世俗的な人生ではなく、霊的な人生を送るだろう。彼は世界中で礼拝を行うだろう。おまえはこの子に関して責任を負い、彼を育てなければならない。彼の霊的な成長を妨げてはならない。」スワミ・パラマグルが言った通りに、私は彼女の娘プシュパカンティの三番目の子供としてマンダンダウェラで生まれた。最初の子供は女の子で、二番目は男の子だった。

 私のおばあちゃんは、私の母に聖者の言葉のことを話した。私の父はこのことを聞いたとき、少しも喜ばなかった。なぜなら、私の父は霊的な生活に興味がなかったからだ。とにかく私は、おばあちゃんを一番慕っていたし、私はウディピリの近くのクービアンコダ・コッツワゲッダラにあるおばあちゃんの家で大方一緒に暮らし、おばあちゃんは私を育ててくれた。祖母は私をとても愛してくれ、とてもかわいがってくれた。私たちは離れられない間柄だった。私は祖母の食事を食卓に並べたり、祖母の服を洗うのが好きだった。私も祖母をとても愛していた。


学校時代
 私は最初マタレの修道院のミッションスクールで学んでいた。私は、小さい頃大変ないたずらっ子であったことを認めなければならない! そんなふうに幼い頃からでさえ、私は自分が実際にやっていないいたずらのことでよく罰を受けたものだった! たとえば、修道院で一緒に勉強していた非常に親しい友人がいた。私たちの学校の校庭にはとても大きくて深い井戸があり、生徒はそこに近づくことを禁じられていた。私のいたずらな友人はその井戸にココナッツ一つと生徒の服を投げ入れ、それから、誰かが井戸に落ちてしまったというでたらめ話を広めた。学校中が緊張に包まれ、大勢の親たちがパニックに陥り、自分たちの子供を捜しにやって来た。後に、消防署から井戸を捜索しに男たちが送られてきたが、服だけで身体を見つけることはできなかった。校長は激怒し、調査を始めた。私の友人がまさに捕まりそうに思われたが、彼は私を指差したのだ! 私は友人のせいで責めを負った。私の姉ババッカも「私の行状」のせいで処罰され叱られた。そんな歳からでさえ、私は自分がやっていないいたずらのことで罰を受けることに慣れたのだった。

 その後、私はクライストチャーチ校で学んだ。私に備わっている普通でない力が私の家族以外の人々に実際に明らかになり始めたのは、ここでのことだった。私は七年生だった。時々、私はふざけて友人たちにものを言うことがあったが、奇妙なことに、私が言ったことは現実となり、結局言葉通りの結果となった。私は学校でとても頭が良く、当時はよく最高点を取ったものだった。もちろん、他の生徒たちから激しい競争を仕掛けられたりした。ある日、ある少年が自分はとても周到に準備ができているので次の試験で一番の成績を取ると、私に挑戦してきた。私は自動的に、「うん、彼は周到に準備しているけれども、不運なことに彼はその試験に出席できなくなるだろう」と答えた。そこにいた皆は、私が嫉妬からそう言っているのだと思って笑った。私はそのようなことを言うべきではなかったと思ったが、試験のとき、その少年は現われなかった。彼と彼の家族は皆、食中毒で病院へ入院していたことがわかった。毒のあるトカゲが、コックの知らないうちに食べ物の中に落ちていたのだ。私はそのことについてあまり考えなかったが、その少年が回復すると私のところへ来て、「プレム、どうしてきみは僕が試験に出られないってわかったんだい? 」と聞いた。私は、「おいおい、冗談じゃないよ、僕は冗談半分に言っただけだよ。まったくの偶然さ」と答えた。

 この出来事の後、私の友人たちが私のところにやって来ては、自分たちが試験でどれくらいの成績が取れるかとか、試験にパスするかどうかとか、自分たちの両親たちがその日の昼食にどんな食べ物を届けてくれるかとか、冗談半分で聞いた。時が経つにつれ、友人たちは私の予言したことが何でも正確だったことに気づき、馬鹿にして笑ったりしなくなった。友人たちは私にいくらか敬意を払うようになった。私は七年生の最終試験が終わった後、祖母と一緒に休日を楽しんでいた。クラスメートのディヤが私のところへ会いに来た。彼女は自分が最終試験に落ちてしまったと思って泣いていた。私は彼女を慰めようとし、彼女の家で誰かまもなく結婚する予定があるかどうかと聞いた。彼女はぎょっとして、そのとおり彼女の姉が一週間以内に結婚するのだと言った。私は、ディヤはその結婚式を楽しむだろうし、間違いなく、ディヤは八年生で私と一緒になるからと言った。私の言った通りになった。ディヤはぎりぎりのところでパスした。彼女はとても感謝して、このことについてのニュースが学校で広まった。この後、ある先生が私に、もうじき生まれる自分の子供が男の子か女の子かと尋ねた。私は「両方ですよ」と言った。彼女は混乱した。しかし、後に彼女には、男の子と女の子の双子が授かったのだった。私の能力についてのニュースは生徒たち、先生たち、そして両親たちに広まり、たくさんの人が私に会いに来た。

 そのうちに私の人生における転期が訪れた。私は、友人たちに自分たちと家族を助けて欲しいと頼まれ、友人の家を訪れるようになった。私は学校をずる休みして彼らに会いに行った。なぜなら、私の祖母が不要に友人の家に行くことを許してくれなかったからだ。ある場所で友人の父親が、自分は家を買うことができるだろうかと尋ねた。私は、何気なく『どうしてですか? あなたは既にこのようなご自分の大きな家を持っているではありませんか。どうして別の家を買う必要があるんですか? 』と聞いた。彼らは混乱した。その父親は、この家は自分のものではなくて、いとこから借りているのだと言った。私は「いいえ。これはあなたの家です」と言って、立ち去った。二ヶ月後、私の友人とその両親が、べテル・リーフや果物、花や菓子の入っている伝統的な宗教的捧げ物の皿を持って、私の家にやって来た。彼らは、私に深くお辞儀をし礼拝した! 私が言った通りに、その家は父親のものになったと彼らは言った。その家の前の持ち主が、その家を担保として私の友人の祖父に金を借り、その金を返せなかったので、私の友人の祖父にその家を譲ったらしいのだ。したがって、その家は今や私の友人の父親の所有物になったのだった。

 私のおばあちゃんはこのことすべてを聞き、神聖なあの賢者の言葉を思い出した。そのときから、彼女は、私が神に仕える人間になるよう準備させながら、私を霊的に育て始めた。彼女は、私を数多くの寺院へ連れて行き、聖地詣でをし、偉大なるヨガ・スワミのような徳の高い人々に会わせるために私を連れて行った。私が一生を通じて得たさまざまな種々の内的な霊的体験が増加し始めた。私の言った言葉が本当になるということに加えて、他の類の奇跡的な出来事が私の周囲で起こった。私はこれらの神聖な徴のすべてを述べることはできない。それをすべて述べようとしたら丸まる一冊の本になってしまうだろう。それについては、将来ゆっくり説明しよう。私の両親は私が霊的な人生を追い求めることをまったく望んでいなかった。私の両親は、霊的な人生などまったく無意味なことであると言い、彼らは私にとって大きな障害だった。彼らは私の周囲で起こっている奇跡を目の当たりにし、私の言葉が実現することがわかってさえも、こうしたことに魅力を感じはしても、霊的な道を歩むという私の決心に反対だった。

 私はこの時点までベジタリアンではなかった。しかし、私のおばあちゃんや私の神聖な力のことを知っている私の友人たちの両親らは、私に肉を食べさせる用意をしたりはしなかった! 彼らは皆、これは神に対して罰当たりなことになってしまうと言った。そこで、彼らのため、私は自分の食事を純菜食のものに変えた。私は神について多く考えるようになり、自分に備わっている科学的には説明のできない能力について自分の内深く沈潜し、深く集注した。私は自分の身体の中にある神の力を感じ始め、自分自身の内にある偉大なエネルギーに気づくようになった。神の弟子となることを、そして私の内側から来る神の導きに従うことを私は意識的に決意した。私は、人々に奉仕し、精神的な苦痛や物質的な貧困に苦しんでいる人々を助けるべきだということを理解した。私は、自分の主な役割が、必要とする人々に自分が与えられるものは何でも与えることであるとはっきりと知ったのだ。

 そうして、私の霊的な人生が始まったのだ。


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