スワミ・プレマナンダ その半生を語る


大聖自らを語る


第二章 私の使命


使命を開始する
 人類に奉仕し必要としている人々を助けるという重大な決意をした後まもなく、さまざまな問題が起こった。まず第一に、マタレには、ヒンドゥー教の僧がまったくいなかった。スワミ・パラマグルのアシュラムさえ、維持管理を欠いていたため機能していなかった。私に霊的な導きを与えてくれる人は誰もいなかった。私の両親と親戚らは私が霊的な人生を送ることに反対だった。私の新しい帰依者たち(私の友人たちの両親ら)は、自分たちのところに滞在するように私に頼んだ。そこで、私はしばらくの間ソウンタラナヤガル・グナラトナム一家のところに滞在した。新しい帰依者たちは私に会いにその家へやって来た。帰依者たちは自分たちの家族や友人たちを連れてくるようになった。私もまた、霊的に成熟し始めた。ますます多くの帰依者たちがやって来るようになった。帰依者の数は急速に増し、彼らは皆が自由に来られる場所に私がいるべきだと感じた。このように、私の最初のアシュラムは形作られていったのだ。私はいっそう瞑想への促しを感じた。私は四十日間一日二十時間近く瞑想した。私はたくさんの霊的な体験をした。

 私は、幼い頃、数多くの機会に神を体験したけれども、自分に何が起きているのかあまり理解できなかったのだということを思い出した。よちよち歩きの頃でさえ、私は物事が起こるよう意志したり、どんな品物でも食べ物でも自分の手の中に欲しいと意志することができたのだった。学校で、あまりにもさまざまな神々や聖者たちの生涯のことを思うと、よく半意識状態に陥ったものだった。私は耐え難いほどの喜びに圧倒されるように感じ、気を失い、肉体を離れたりしたものだ。時には、皆は私をタクシーで家に送らなければならなかった! 十歳くらいの頃、私はしばしばコロンボのおばさんのところへ行きたいという衝動にかられた。私がちょうどおばさんのことを考えていると、自分が彼女と一緒にいることに気づいたものだった。おばさんは私の母に、どうしてこんなに幼い男の子がコロンボまで一人で四時間も旅行するのを許したのかと尋ねた。そのとき、おばさんと私の母は、私が同時に二つの場所―――コロンボのおばさんのところとマタレの母のところ―――に実際にいることに気づいた。そのようなとき、私は自分の肉体がまるで夢の中にあるかのように感じていた。十二歳のとき、私は一度、三日間部屋に鍵を掛けて閉じこもった。家族には私は病気だと言った―――しかし、実際には私は神に酔ってしまっている高い状態にあったのだった。三日目に私の姉ババッカが私のことが不安になり出し、屋根の天窓から私のことを覗いて見た。彼女はひどく怖がった。なぜなら、私が金色の光に包まれて蓮華座で真っ直ぐに座っているのを見たからだ。

 さて、私は意識的に神へ、そして自分に授けられたヨーガの力の源に達しようと努めていた。四十日目に私は次のように言う声を聞いた。『お前は神なる力に恵まれている。実現したのはお前の言葉ではなく、神がお前を通して語る言葉である。今後、お前はお前の帰依者たちに神のことについて話すべきである。できるだけ多くの人々に神が存在することを理解させることが、この世におけるお前の使命である。』その日から、主として私はすべての人に対し神について話すようになった。私は帰依者たちに、帰依者たちを神へと向かわせることに自分の人生を捧げたと言った。今や神が常に私の意識の中におり、一日も欠かさず、神が、私のすべての考え、行い、活動の不可欠な要素になっているのだと言った。私は帰依者たちに、この力と、私を通して神が導かれる知識を彼らと分かち合おうとしていると約束した。私は帰依者たちの考えを高めようとし、私たちの五感の体験を超えるもの、宇宙に存在するすべてのものの背後にある本質的なフォースである、私たちが神と呼ぶあの偉大なる無限の力に接触することができるよう人々を助けようと努めてきた。


僧として生きる
 私はいつも簡素な白い服(ドーティとショール)を着ていた。帰依者の娘のシャンタがある日私に話しかけてきてこう言った。「あなたには特別な力があるのですから、サンニャシつまり僧のオレンジ色のローブを身に付けるべきです。しかし、帰依者たちの前であなたの白い服をオレンジ色に変えるなら、その方が良いと思います。あなたはただそのオレンジ色を着始めるべきではないと思います。」私は何をなすべきかについてちょっと困惑したので、そのことについて瞑想した。私は内的な霊感を受け、帰依者たちを呼んで、聖なる母の祝祭(ナヴァラトリというヒンドゥー教の祭)の最終日に、私は自分の白いローブをサンニャシ(放棄)のオレンジ色のローブに変えると言った。「私はそのときから、もはやラヴィ・スワミではなく、スワミ・プレマナンダと呼ばれるだろう。あなたたちは皆、この儀式にぜひとも来るように」と言った。1969年ヴィジャヤダサミの晩、ナヴァラトリの祝祭が最高潮に達したとき、私が祈りと黙想をしながら座っている部屋は、この奇跡を見ようと熱心に待ち受ける帰依者たちでいっぱいだった。偉大な霊的波動が祈りの部屋へ入ってきて、私の新しい白いローブはゆっくりとオレンジ色に変わった。私は、自分の血管やハートやマインドを通して自分の身体中を循環している偉大なすばらしいエネルギーを感じた。それ以来、私はスワミ・プレマナンダとして知られるようになった。私の“サンニャス入門式”を目撃した人々の多くはまだ生きており、自分たちの体験について話している。


人の姿をして押し寄せる、数々の敵意・苦難
 私は、霊的人生の初期段階で数多くの困難や苦しみを体験したが、そのすべてについては話す必要はない。私が直面した困難は、私を強くし、神への信頼をより一層強めた。帰依者たちや信奉者たちすべてのために霊的な環境を築こうとして私がどんなに苦労したか少し話そう。前述の通り、私が最初に直面ししかも最も苦しんだ問題は、両親と親戚からのものだった。世俗を放棄するという私のサンニャシとしての人生に彼らは完全にそして絶対に反対だった。私の両親は、私に商売人として成功して欲しかったのだ。私は学校で成績が良かったので、父は私が商人として成功するだろうと想像していたのだ。私が学業を離れ霊的な道を辿っていることを知ったとき、父は怒り失望した。父はあまりにもショックだったため、私に向かい「地獄に落ちてしまえ! 」と叫んだ。父は、私の馬鹿げた無駄な人生と振る舞いのせいで、家族の威信と名声は台無しだと言った。親戚すべてが力を合わせて、私にこのいわゆる“愚かな職業”を辞めさせようとした。自分の実の両親と家族からそのようなことをされるとは予想しなかったほど、私にとってこれは大変な精神的苦しみだった。後に、私が神の道を行くことを非常に堅く決意していることを彼らが理解したとき、彼らは私を見捨て、私に近づきたがらなかった。私は孤児のようだった。

 しかし、依然として、私はおばあちゃんから支援と愛を受けていた。彼女は偉大なる魂であり、献身的なハートを持っていた。私が霊的な道を歩んだため、彼女さえも苦しまなければならなかった。ある集団の人々は、私と芽を出しかけた私の使命に敵対していた。彼らは私の霊的な成長と人望を恐れていた。彼らは私に対して陰謀を企んでいた。ある日、私がおばあちゃんの家にいると、彼らがさまざまな武器を持ってやって来て家を攻撃した。おばあちゃんと私は家から走って逃げた。私たちが翌日戻ってみると、彼らが家全体を破壊してしまったとわかった。私たちには住む家さえ無くなった。両親が私たちを見捨ててしまったため、私たちにはどこにも行くところがなかった。家の修理が済むまで、帰依者たちと友人たちが援助の手を差し伸べてくれたが、この出来事は、祖母を大そう精神的に不安にさせた。その後間もなく、彼女は亡くなった。彼女は私の親密なそして真の助力者であったので、私は彼女を失って大変つらく感じた。私は今や本当にたった一人だった。

 さて、私の祖母がこの世を去ってしまい、私は次に何をすべきか本当にわからなかった。多くの友人たちとその両親たち、そして新しく私の帰依者となった人々は、私に、自分たちと一緒にいて、霊的な奉仕をして欲しいと頼んだ。新たな問題があった。私がどの人の家へ行くべきであるか?  私がある家に滞在すると、その他の人々は不機嫌になったり嫉妬や怒りを感じたりしたものだった。これは、ただ私に対する愛情のせいだけではなかった。他の理由があったのだ。それはカーストとか社会的地位の問題だった。あるカーストに属している人々は(スリランカとインドでは自分のカーストは自分の一族の家系だ)、私がより低いカーストの人々の家に行くのを好まなかった。社会的な地位のある裕福な人々は、私が社会的地位の低い貧しい帰依者たちのもとを訪ねるのを快く思わなかった。しかし、あなたたちも知ってのとおり、私にはそのような感情はまったくなかった。私は神の目にはすべての人が平等であると感じ、そう言っていた。だから、私たちはこのような差別をすべきではないのだ。その帰依者たちは私に同意する用意ができていなかった。すぐさま彼らは私に対し策を弄するようになった。これが、私の霊的な人生と私の使命の遂行にとってのもう一つの妨害であり障害だった。しかしながら、そのような妨げにもかかわらず、私の人望は着実に高まり、それとともにマタレ社会という一定の地域からの敵意も増大した。

 マタレは基本的に仏教徒の地域社会だったとは言うものの、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒そしてイスラム教徒が隣り合って調和して暮らしていた。ヒンドゥー教の霊的な指導者はいなかったものの、寺院はあったし聖職者もいた。私には仏教徒の帰依者たちがいたが、ある集団は私の使命をその初期の段階で中止させようと望んでいた。彼らは私が道を歩いていたり公共の場にいるのを見かけるといつでも、「おや、有名なペテン師がやって来たぞ。あいつが悪魔のもとへ行けるように祈ってやろう」と言いながら、私に対して悪いうわさを広めたものだった。彼らは私を批判し、馬鹿にした。彼らは私の面目をつぶそうと努めたが、私は彼らにはそれくらいしか知恵がないことを理解していたので、彼らのあらゆる発言に辛抱強く耐えた。

 私は自分の霊的な実践をより強烈に行った。私は非常に頻繁にプージャを行い、よりいっそう神を瞑想し神に集中した。私が自分自身の内に霊的に深く入れば入るほど、より多くの人々が私のもとに引き寄せられて来た。当初私を支援してくれた私の友人たちとその家族たちは、不満を抱くようになった。なぜなら、私がもはや彼らのためにあまりたくさんの時間をとることができなかったからだ。私の導きを求めてやって来ている困っている人々や、また、私を必要とする真摯な霊性の熱誠者たちのために、私は時間が必要だった。私の古い友人たちは、私がよく知られるようになったのは自分たちの熱心な働きのおかげであり、そして今では私が自分たちのことをあまり大事にしていないと言った。彼らは、私が彼らに対して忠実でなく、彼らのことを見捨てているのだと感じた。

 私は次のように答えた。「私が霊的に成長したのは、あなたたちのおかげだけではない――それは神のおかげだ。神は、あなたたちを用いて、人類を助けるために私を世に知らしめた。もし、それがあなたたちでなかったなら、他の誰かであっただろう。もし、あなたたちが私の言うことを信じないなら、私のような霊的な別の人物のところへ行ってその人物を発達させようとしてごらん。霊的な成長は外的な助けのおかげで現われるものではないのだ。すべての助けは神から来る。」しかし、私が説明したことを彼らは理解できなかった。

 もう一つ、私を悲しませたことがある。私の教育は完全に終わってしまった。私はまだ若いうちに自分自身を完全に霊性の分野へ捧げ、学問を続けられなかった。学校時代の終わり頃には、私はちゃんと勉強することができなかった。なぜなら、すべての子供たちや教師たちが常に私に物事を予言して欲しいと頼みに来たり、問題を抱えて私のもとへやって来たからだ。私の学問は完全に邪魔され、それで、九年生のとき、私の教育は中断し、終わりを告げた。もう既に、私は毎日数多くの訪問者を迎えていた。今でも、やはり私は自分の教育の不足を感じる。そこで私は、すべての若い人々に、たとえ彼らが霊性に強烈な感情を持っていたとしても、若いうちは勉強するよう常に奨励しているのだ。

 あなたたちの人生において他の何らかの重大な決定をし行動する前に、学業を終えることは、欠かすことができない。

スワミジのこの思いを享け、プレマナンダ・スクールでは、それまで学校に行けなかった子供たちや孤児たちを引受けて食事を与え、補習授業を行い、結果、子供たちは地域の学校群の中でも優秀な成績を修めるまでになっているのである。大学入学希望者にはその支援も与えられる。

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