大聖と、大聖のメッセンジャー〈弟子〉


第十章 大いなる計画


弟子を通して語る
霊性生活をどのように始め発展させるべきか、アーナンダをどのように理解すべきか? ブッダとクリシュナはこの主題について〈当時対象としている地、パレスチナの一男性を透して〉人々に話した。彼らはこの主題について、二千年前に〈弟子を透して語るという〉伝統に従って人々に話した。 ― 1994年以前 ―

17歳のとき、私は、自分のメッセージ‐教え‐を16人か17人の人間に〈霊的訓練の後〉与えるべきだ、というメッセージを神から与えられた。 ― 2000年7月〜8月訪問時 ―

私は、あなたたちを通して行なう大いなる計画を持っている。あなたたちは、私のメッセージ‐教え‐を世界中に広めるために、自らの身を私に捧げる覚悟ができていなければならない。私は、すべての人に真理・神性を教えるために、あなたの肉体を用いるだろう。あなたたちは、《肉体宇宙の一個の原子は微小なリンガムであるという》その肉体を持っているが、その価値を本当には理解していない。これを読んだ後で、あなたたちが正しい道に従い、霊性の最高のレベルに達することを、私は願う。 ― 1999年5月3日 ―

師と弟子の間には内的な繋りがある
弟子は内的に繋るたった一人の師からその栄光を受継ぐ
弟子は惑星における師の栄光そのものとなり、師は更に高度な使命へと進むことが可能となる
『実際には、弟子が師を選ぶことは、決してない。―――あなたは、数多くの他の霊性の師方に会うかもしれないが、しかし、たった一人の師が師弟の関係を築くことに同意するだろう。―――覚えておきなさい、あなたは実は、自分の霊性生活の初期の段階で自分の師を選べるほど十分成熟してはいない。本当のところを言えば、教師が生徒を選ぶのだ。〈したがって真正の〉すべての霊性の師方を尊敬しなさい。そうすれば、適切な師があなたを選ぶだろう! 』 ― 1996年6月6日 ―


訓練
師は、このメッセージ‐教え‐を人々に手渡すために、本当に忠実で、嘘偽りのない誠実な人々を選ぶ。メッセージを受け取るその人は、まだ十分に成熟していないかもしれないが、それでも師の恩寵は、やがて彼もしくは彼女に注がれるだろう。もしその人が真のバクティ・無私全託を以て絶え間なく師について話すなら、師の力が、その人の身体を通して放射されるだろう。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、彼が話すとき、師スリ・ラーマクリシュナが話していたのだと言った。彼は、そういうマインドの状態にあったのだ。―――あなたたちは、このことが師の恩寵を通して起こったということを理解する必要がある。―――人々がこの生涯においてより良い霊的段階に達することができるように、師は、弟子たちを通して働く。弟子たちがこの奉仕を行うとき、彼らは利己的であってはならないし、またいかなる期待も持ってはならない。このことを理解し、道に従いなさい。 ― 2000年9月26日 ―

師の霊的なエネルギーを受け取りたいと思う者たちは、それを受け取ることができるよう、(各人に適した)さまざまなサーダナと奉仕を通して自らを準備しなくてはならない。すべての人が、霊的電流の良い伝導体に適しているとは限らない。‘相互感応する’強いテレパシー的な接触を発達させる方法は、その師と神に対する愛と、無私全託を通してだ。私の良いメッセージを受け取るためには、あなたたちは、疑義の存在しない、安定した信に満ちたマインドを持つ必要がある。私は、そのような弟子に物理的にいつも会う必要はない。彼もしくは彼女は、地球の反対側に居ても、私の通信と教えを理解することができる。たとえ私がこの身体の中にもはや居なくなっても、私のメッセージ‐教え‐は、明瞭に受け取られるだろう。
これこそが、師と弟子の本当の関係である。 ― 1997年3月20日 ―

師があなたを弟子として受け入れることに同意した後、そのとき、霊的なつながりが本当に確立される。これは、あなたは出家者にならなくてはならないということではない。―――師と弟子が非常に特別な霊的な関係を築くと、弟子もまた、行なうべき多くの仕事がある。弟子は、エゴを取り除くよう真剣に努力しなくてはならない。―――あなたは、「私がする」、「私は好きだ」、「私はしたくない」という感覚を失くさなくてはならない。―――エゴを取り除くことは、霊性の道において最も困難な仕事だ。あなたが神の道具になりたいと思い、あなたの霊性の師があなたを通して働くことを望むなら、まず、エゴを粉砕する成道必至の努力をしなくてはならない。 ― 1997年7月17日 ―

あなたが自分の肉体を忘れるなら、そのとき、あなたは神愛至福(プレマナンダ)になるだろうプレマナンダ(神愛至福)意識は魂≠ノ関わり、魂≠包摂する。― 2008年3月6日 ―

私が昨日話したことは、必ず実現するだろう。―――この身体がサマーディに入る前に、それは実現するだろう。 ― 2008年3月7日 ―

来年(2011年)、私はモウナムに入るだろう。私が話すことができないとき、(聖母の)ほかにいるあなたたちの知っている一人にのみ、私は(自らの死の真相を)明すだろう。 ― 2010年12月 ―


物質的な明け渡し≠ニ霊的な明け渡し≠ニを明示する
弟子は完全に明け渡すべきだ。 ― 2008年3月 ―

さあ、私は、霊的な明け渡しと物質的な明け渡しについて話そう。あなたたちが会社で働いているとしよう。・・・あなたたちはその社長に明け渡していないが、その会社に明け渡す。・・・同様にあなたたちもまた(スワミ・プレマナンダに明け渡していないが)、スリ・プレマナンダ・アシュラムにあなたたち自身を明け渡している。それは物質的な明け渡しだ。

今度は、霊的な明け渡しについてだ。あなたたちが神を見たいという欲求を持っているなら、そのとき、あなたたちは、自身を〈至高のエネルギーに〉完全に明け渡さなければならない。あなたたちは、〈我欲を粉砕して自分の肉体を主張せず、一切放棄してしまうという〉それが容易いことだと思うか? ・・・〈只在って、肉体自我を顧みない〉それは、一週間やひと月で起こるものではない。・・・実際に明け渡すということは、行うのが途轍もなく困難なことなのだ。明け渡しとは、あなた自身を完全に〈至高のエネルギーに〉差し出す境地であり、あなたは決して、元の位置に戻って来ることはない。あなたたちが行っていることは、一週間明け渡し、それから翌週には自我を取り戻し、元の状態に戻っている。それは、霊的な明け渡しではない。 ― 2010年 ―


師は常に弟子をテストするものだ。時として、そのテストは非常に厳しく、弟子は、師が個人教師であることを忘れるかもしれない。そのようなテストに失敗する者たちは、真正の弟子と呼ぶには相応しくない者たちだ。弟子に与えられるすべてのテストは、彼らに一定の物事を説くためだ。 ― 1987年コロンボ ―

師は、あなたに物質的なものと霊的なものの違いを教える。あなたにそのための準備ができているなら、そのときあなたは、わたしを師として、真に受け入れたのだ。 ― 2008年マハシヴァラトリ ―


弟子であることに失敗する
師の圏内に在るか、否か
私は、何について話すべきか? 私が私の誕生日のために来たのは、15年ぶりだ。・・・私は、私がここに来るのは神の計画だと考えた。なぜなら私は、そのような誕生日の祝いのために来たくなかったからだ。―――

―――私はあなたたちを呼ばなかった。あなたたちを連れて来たのは、神だ。なぜ、神はあなたたちをよこしたのか? 理由があるに違いない。私があなたたち一人一人を通して行なわなければならないことがあり、そのような訳であなたたちがここにやって来ているか、または、私があなたたちに与えなければならないメッセージがあるからかのいずれかだ。私はあなたたちにそのメッセージを与えなくてはならない。しかし、私は、そのメッセージをあなたたちに直ちに与えることはできない。私がそのメッセージをあなたたちに与えるのは、あなたたちが私からそれを受け取るに十分なほど成熟した場合〈師の圏内に在る場合〉に限り、可能なのだ。―――

―――神が私にそのメッセージを与えたとき、神は私に、このメッセージはあなたたちがそれを受け取るのに十分なほど成熟した段階〈師の包摂使用が可能な段階、またはそれより下の、師によって濃密化された情緒構成想念を受け取るに足る情緒体を浄化した段階*〉にあるときにしか、あなたたちに与えられるべきではないと言った。この人であろうとあの人であろうと、ただ彼らが私の周りに居るからといって、彼らがそのメッセージを受け取るのに十分なほど既に成熟しているということを意味しているのではない。彼らはそのメッセージ‐教え‐を受け取ることができる程にまで、彼ら自身を発達させなくてはならない。

あなたたちの内側には、さまざまな特質および特徴がある。あなたたちは人間であるから、あなたたちの内側に嫉妬、プライド、緊張、怒り、エゴ、非常に多くの傾向を持っているのは当然だ。あなたたちが認識しなければならないことは、あなたたちが神へと向かう新しい旅を選んで進みたいとき、あなたたちは、神により近づくためには、あなたたちの内側にあるこれらの特徴を取り除かなければならないということだ。私は、あなたたちの間違いのせいで、あなたたちに腹を立てていない。しかし、私は、あなたたちを少しより良くするために、何度、あなたたちからこのような特徴を絞り出そうとしてきたことかと考える。私は、こう考えている。「なぜ、あなたたちはこれ(師の言葉)を受入れないのか? なぜ、あなたたちは、あなた自身を変えることができないのか? なぜ、この変容が、あなたたちの中で起きていないのか?」と。これが、私の直面している問題だ。

私は神にこう尋ねた。「なぜ、あなたは私を今回誕生日のためによこしているのですか? 私がそこに行き、大声で叫んでも叫んでも、何も彼らの頭の中に入っていかないのだから、無駄です! 彼らは、彼ら自身を変えないでしょう。では、私の誕生日に私を送る理由とは、いったい何なのですか?」と。神は、あなたたちに手渡すべきメッセージを直接私に与えられたが、しかし、私には不可能だ。あなたたちは、十分なほど成熟しておらず、このメッセージを受け取る用意ができていない。

―――(邪悪な外来勢力と内通して一緒くたになった)あなたたちが神聖な想念を持っていると言張るなら、神によって創造された生き物たちに何か害を及ぼすことについて考えることなどできようか? あなたたちが本当に霊性の状態にあるなら、この世界の誰かを傷つけることなどできようか? ・・・たとえ、あなたたちが霊性の道にあるような振りをしても、実際には、あなたたちは霊性の道を歩んでいないと、私は考える。あなたたちは、自分たちを動揺させている自分たちの悲しみ、困難、問題から自分たちを救い出してくれるよう、ただ神に祈っているに過ぎない。

―――今日、私は、私の考えをあなたたちに言っている。私たちは、ここに送られたのだから、神が私たちをここに送っていることには理由があるに違いない。すべてのことは、理由があって起こるのだ。もし私が刑務所にいるなら、それにも理由があるにちがいない。一例をあげれば、イエス・キリストは、この地上にやってきた。なぜ、彼らは彼を十字架にかけたのか? 理由があったのだ。なぜ、ラーマは、密林で14年間過ごさなければならなかったのか? それは、彼にとって必要だったか? そう、理由があったのだ。ブッダは悟りを得た存在だったが、それでも彼らは、ブッダを殺すため毒を盛った。さあ、彼にとって、自らがその毒に冒されるのを止めることは、完全に可能であった。なぜなら、彼は悟りを得た存在だったからだ。しかしそうせず、彼は、毒を喜んで引き受けたのだ。私たちがこのことすべてから得ることは何か? あなたたちそれぞれ、一人一人がここにいるのは、そこに理由があるに違いない。あなたたち一人一人がここに私と共におり、私と話すのは、運命付けられていた。その理由が存在するのだ。その理由とは、何か?
・・・
私は、私を刑務所から出してアシュラムに居させてくれるよう、神に頼んではいない。私は、頼まないだろう。それは私が頑固だからではなく、ただ、私は頼まないだろう。・・・刑務所の中にいることから私が引き出す恩恵とは、私のもとへ来る帰依者たちからの質問すべてに私が答えることができることだ。私がアシュラムに居たなら、(帰依者であると主張するアシュラム在住者複数‐つまりタミル人によって構成される‘マネージメント’‐が私とあなたたちの間に割って入り)あなたたちの質問すべてに答えることは決してできないだろうということは確かだ。そのような質問に私が与えている答えは、まもなく終わりになるだろう。だから、あなたたちは、あなたたちの質問すべてをできるだけ早く私に尋ね、私からすべての答えを得るほうが良い。それは何を意味するのか? それは、私がモウナム(サマーディ)に入る時が近い、非常に近いということを意味する! 私は、自分がいつ出てくるのかを正確に知っている―――

私はあなたたちすべてに与えるメッセージを持っているが、しかし、このメッセージをあなたたちに与えるしかるべき時まで、出て来ないことに決めたのだ。私は、あなたたちへのこのメッセージを持って出てくるために15年間待った。―――

私は、今や完全に霊性に没頭したいと思う。したがって、(2009年の)この誕生日から先、私はそうする。私は、最終的にあなたたちに話かけるのを止めるだろう。あなたたちがやって来て何か言うなら、私はただ頷くだろう。私はそうするだろう。私は、そうするつもりだ。理由は、話すことによっては何も得るものがないからだ。―――

―――あなたがこのアシュラムにやって来て、あなたの目標を見失い、他の物事について考えるなら、そのとき、来たことは無駄だ。あなたは、あなたの時間を無駄にしている。・・・他の人々を嫉妬してはいけない。このアシュラム居住者を例に取り上げてみよう。彼女が私を罵るとしよう。それによって、私は何を失うか? 何も。しかし、このような物事すべてを見守っている神は、彼女を見るだろう、そうして、神は彼女にこう尋ねるだろう、「なぜお前はこのような霊的な人間を罵っているのか? そのせいで、否定的なエネルギーがお前に付着しないのか? 」と。それは、あなたと神との関係だ。あなたは、私に対して何らの害も及ぼしていない。私は、それを深刻に取らない。私は、何の賞賛も欲していないし、非難についても気にしていない。―――

二つに一つ
―――あなたたちが霊的人生に関心をもつなら、そのとき、私はあなたたちがその人生において幸福を持てるよう祝福するだろう。もしあなたたちが理解し共感するなら、そのとき、あなたたちはよりいっそう高みへと行くだろう。しかし、もしあなたたちが反発し理解しないなら、そのとき、あなたたちは堕ちて行くだろう。何一つ、私の手の内にはない。私は、私を信ずるよう、あなたたちに頼んでいるのではない。神への信を持ちなさい。神はあなたにとって真実だからだ。神があなたたちを私のもとへ送ったのは、あなたたちに何かをさせるためだ
‐ 2009年11月17日誕生日のサットサング ‐

以上は、2009年11月に、大聖が1994年冤罪で逮捕されて以来初めて、アシュラムで誕生日を迎えられた時のサットサングである。
1994年11月18日、大聖の誕生日の翌日、アシュラムの混乱状態の中で、大聖と数名が冤罪で逮捕された。その相似形が再び、アシュラムを舞台に繰り返されようとしていた。
(その1994年には、大聖に育てられた子供たち―男女―が結婚破綻を予見してアドヴァイスした大聖を理解せず、反感を募らせ、(同じくアシュラム内で地位を与えられずに大聖を逆恨みした大人の帰依者複数に煽られ、)仕返しを考えた末、大聖を貶めるという一点で利害一致した外部団体と結託した。そして、メディアを総動員して【大聖は有罪である! 】と州全体に渡って大合唱を繰り広げ、大聖を冤罪逮捕させたのである。冤罪逮捕された二千年前のイエスの事例が、内実を同じくして、此処に再現されたのである。)
同様のことが、再び起こることを、大聖は示唆されている。既にこの時(2009年11月時点)、2010年マハシヴァラトリの騒動が着々と準備されつつあり、それは翌2011年2月の大聖毒殺へと展開していく。


アシュラム在住者
『私はアシュラム・オフィスの仕事を良いやり方で行って欲しかった。だから私は海外から来た人々を交え、彼(女)らと良いアイディアを共有し、(諸外国の帰依者たちからの支援によって学業を終えたタミル少年少女たちはアシュラムを出て、各自で身を立て、奉仕活動をし、支援された者≠ヘ支援する者≠ニなり、外からアシュラムを支えるように、という)良いルールを定めた。私は(アシュラムが対外奉仕活動の拠点となるべく)このことすべてをたいそう忍耐を持って行った。これが将来公益の奉仕〈奉仕会〉へと発展するために創られたアイディアとルールなのだということを、支援を受取る一方であったアシュラム在住者の誰も理解しなかった。
こう語るスワミジの言葉が自分たちを緊張させ、負担を掛けるためにこのようなルールをスワミジが定めた、と考えるアシュラム・オフィスを占める者たちと話をして、何になるのか? 』― 2004年1月 ―
「自分たちはアシュラムで育ったから特別 ! ! 」「自分たちはアシュラムに住んでいるから特別 ! ! 」「特別だから、支援を受けても当り前 ! ! 」―― アシュラムへは少年少女たちの親族縁者たちまでもが集まって海外からの支援を享受しており、少年少女たちは、擬似カーストに繋がる疑似カーストに逃込むそのような立場を決して手放すことはなかったのである。スワミジの意向に猛反対し、仕返しを考えることさえして、マネージメントに居座って胡坐をかき続けること、アシュラム・オフィスを占有し続けることが、アシュラムで育てられた少年少女たちにとっては何よりも重要なことなのであった。タミル少年少女たちは、諸外国からの支援で与えられた金銭・物資を自分たちが牛耳っていることを外部からは見えなくする、カモフラージュする必要があったのである。ここにおいて、少年少女たちの心中の暗闇は拡大する一方となり、私利を貪る彼(女)らは、類縁相呼ぶ如くに外部勢力を呼込んで一つになってしまったのである。こうして、ドラマは終局へと展開してゆく。その最終盤には、アシュラム・オフィスを占有するタミル少年少女たちは、二人の西洋人マタジを含む西洋人の殆どを自分たちの側に引き摺り込み、諸共に、神から動物の烙印を押されるまでになってしまったのである。


アシュラムの実態
『インドの蟹は、決して他の蟹が自由の内に生きることができるよう助けたりしない。インドの蟹は、こう言う。「自分たちはすべて、ここの下にいる。だから、お前がここに来て自分たちに加われ!」と。なぜあなたたちはこう言っているのか? 他の人は誰一人、幸福であって欲しくないと主張するためだ。・・・あなたたちが他の人が幸福であるのを見たら、そのとき、あなたたちは何とかして彼に自信と心の平静を失わせて彼を怒らせたいと思い、彼の幸福が消えるようありとあらゆる企みをし出す。
・・・概ね、あなたたちが感じていることは、――他の人は、自分たちの支配下に置かれ隷属しなくてはならず、自分たちの下にいて決して自分たちより上に行くことができるべきでないということだ。』― 2009年11月17日 ―


大聖の教えを理解せず、最後まで反発したアシュラム在住者
ヒンドゥーカーストの土地柄の只中に、自覚(さとり)の光にもとづく、ヒンドゥーカーストを超えた至高の平安の地≠もたらした大聖と、無自覚な人々の内なる闇≠ニの闘い
『アシュラム在住者は皆、私にこう言う。「あなたは、刑務所の中に居た方がいいです! 」と。私がアシュラムに到着するとすぐ、一人のアシュラム在住者がやって来て、私に、いつ私が刑務所に戻るつもりなのか尋ねた! その理由とは何か? アシュラムに在住している人々は私に、自分たちを褒めてもらいたがり、(世間がそうしているようにカーストを是認する)自分たちは非常に良いし、自分たちは非常に良いやり方(上位カーストが下位カーストに命ずるやり方)で自分たちの仕事すべてを(他者に命じて)行っているし、(自分たちはアシュラムでは特別上位カーストに属し、心中海外から来た帰依者たちを自動的に下位カーストに貶める)自分たちは、非常に賢くすばらしいと言ってもらいたがる。あなたたちは私に、(カーストを是認する)このようなことを言ってもらいたがるが、しかし、そのような言葉は、私の口からは決して出てこないだろう。私は、そのようなことを一切言わないだろう。もしあなたたちが、あなたたちに課せられた率先して行う奉仕の仕事を、正直に適切に行わないなら、そのとき、私は、それをあなたたちに面と向かって言うだろう――あなたたちは海外の帰依者たちを騙して、モンキー・トリックスをして、金銭・物資を自分たちの利得の為に掻き集めているだけだ、と)。にもかかわらず、あなたたちが相も変わらず間違ったことをし続けるなら、そのとき、私に何ができよう? ・・・私は、あなたたちすべての中およびアシュラム自体にある(自称帰依者たちが無自覚のまま染まっているヒンドゥー世間カーストに由来する)怠惰を取り除くことはできない。あなたたちは誰も、(それを人間と呼べる他者に尽くす)奉仕の精神を持っていないからだ。』 ― 2009年マハシヴァラトリ ―

『あなたたちに、帰依心・バクティを他者に見せびらかすよう駆り立てるのは、(帰依心を隠れ蓑とする)利己心だ。本物のバクティは、帰依者の小さな個我が(愛によってすべてを忘却して)普遍的自己の中に溶解することを意味する。本物のバクティには、利己心の欠片も存在しない。あなたたちが常に現世の願い事(利得)のために神に祈るなら、そのとき、それは本当のバクティではない。』 ― 1996年1月 ―


おのずからの神性≠ナはなく、世間を生きる人々
『私のもとにやって来る人々の中には、彼らの肉体に付随する錯覚(マーヤ)を振り落とすことのできない人々もいることを、私は知っている。私は、彼らがその錯覚を取り除くことができるようなやり方で彼らに繰り返し言っており、それでも彼らが(馬耳東風に師の教えを放擲して)理解していないことに気づいている。』 ― 2008年11月17日 ―


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