大聖と、未熟な帰依者たち


第十一章 終焉に向かって


17歳のときのイニシエーションから始まった大聖の苦難
『私は、このローブを取りたくなかった。私は望んでいなかった。私は、白い服しか着たくなかった。私が幼かった頃、私はローブを取ったり、サットサングを与えたり、霊性の話をするというような考えを持っていなかった。すべてのことは自ずと起こっている。私の父親が私のところに来て、「おまえはローブを取るべきでない」と言った。私が十六歳のとき、私の周りには既に約二十五人の帰依者からなるグループがあった。彼らがローブを取るよう言うのだ。ある一人の帰依者の少女が私のところにやって来て、「あなたは普通にローブを取るのではなく、特別なやり方で取るべきです」と言った。同時に私は、私の父が私をひっぱたいてひどく怒るだろうと考えながら、「わかった、ナヴァラトリの日にローブを取ろう」と言い、ナヴァラトリの日に五十人の人々に来るよう言い、私の両親にも来るように言ったのだ。今でも、それを目撃した人々が存在する。・・・私は、白いドーティを着てそこに行った。私がプージャを終えた後、私は、そのドーティが消えてローブがきっと私の近くに来るだろうと思った。そのとき初めて、私は自分がどれほどの力を持っているのかを理解した。私の前に光が来て、私を取り囲んだ。即座にすべてがローブに変わった。私の宗教的なグループの人々は皆、喜んで直ちにバジャンを歌い始めた。同時に私の父がやって来て私を殴った。父はこう言った。「わかった、お前が神聖な力を持っていることは認めよう。しかし、私はお前にこのローブを着て欲しくないのだ。」父は直ちに、私を車に連れて行き、家に戻った。父はこう言った。「この年でこのローブはお前に必要ない。脱ぎなさい。もう一度白いドーティを着なさい。」私は白いドーティを着たが、3分と経たない内に、またドーティはローブに変わった。そのように、父は私に5着の白いドーティを与えたが、すべてローブに変わった。その後、彼はもうそのようにしなかった。そこで、私はその他のローブを後で変えることができると思った。そうでなければ、(ローブ以外に)着替えが全くないじゃないか? それで、その日から私はそのようになったのだ。私はこのローブを取った1969年のその日から絶え間なく、数多くの試練と苦難に直面し続けている。ある者は私に石を投げ、ある者は私を罵っている。そのように刑務所に行くまでに、私はそのような試練すべてを見てきたのだ。このようなすべてのドラマを見てきた。すべてに理由があるのだ。あなたたちは、私が直面してきたあらゆる試練に、耐えることはできない。あなたたちは耐えられない。それは確かだ。―――
私は、なぜ自分がここにいるのかを知っている。しかし、あなたたちが望まないことを私は教えることができない。私は、あなたたちの望みに従って生きている。十七歳という年齢から、五十七歳まで、私の人生は、あなたたちの望みに照らしたものだけだった。私は、決して自分の望みについて話さない。いったいどうやって話すのか? 誰に対して話すのか? 誰が、これを理解するだろうか? 人々は、このことを求めるレベルにいない。』 ― 2008年3月5日 ―

『なぜ、私は、あなたたちの悲しみやあなたたちの問題を取り除き、あなたたちの病気を癒し、あなたたちのカルマを取り除き、そうやって重荷をあなたたちから取り去った後、私自身ですべてを負いつつ、あなたたちの重荷を下ろしているのか? ―――
私は、これらの奇跡すべてを、あなたたちの得る取るに足らないその幸福があなたたちを神の方向へ向かわせ、そのことがあなたたちに神こそが永遠なのだということを気づかせるだろうと、その可能性に想いを馳せながら、行っているのだ。』 ― 2008年11月17日 ―

『あなたたちは好むものを何でも続けることができるが、しかし、神を忘れてはいけない。あなたの内側にある神を忘れてはいけないのだ。――私は常に神にお願いしている、「どうかこの人々が犯した間違いを許してください、彼らが知っていてあるいは知らずに、故意に或いは無意識に間違いを犯したかにかかわらず。ああ、主よ、どうか彼らをお許しください、どうか彼らを祝福してください」と。それが、私が神にお願いしていることだ。』 ― 2009年マハシヴァラトリ ―


未熟な帰依者たちの要求と嫉妬
『17歳のとき、私は、自分のメッセージ‐教え‐を、16人か17人の人間に〈霊的訓練の後〉与えるべきだ、というメッセージを神から与えられた。』― 2000年7月〜8月アシュラム訪問時 ―

「この16人あるいは17人の人とは誰なのか?」「スワミジはいつ自分にメッセージを与えてくれるのか?」 これが、ずっと帰依者たち全員のマインドの中を占めていた。しかし、かつての生涯で16人か17人の弟子であった者たち、たとえばインドラ・デヴィ・マタジのような弟子がマハシヴァラトリにやって来てさえ、帰依者たちは師の言葉を理解できず、認知できなかった。

『あなたたちが日常の諸問題にしがみついている限り、それらの諸問題から自由であることはできない。あなたたちがこの世のさまざまな錯覚について心配している限り、どうして、私がメッセージを(内的に)手渡すことができよう? あなたたちがそのような物事を捨て日常の諸問題から自由になり、それから、私があなたたちに与えなければならない霊的な教え、メッセージを受け取れる程あなたたちが成熟しない限り、どうして、メッセージを(内的に)手渡すことができよう? 私は、結婚して子供を持つことは間違っていると言わないだろう。それには何も悪いことはない。それは自然なことだ。問題は、あなたたちの頭の中で、あなたたちの想念すべてが、いくつかの物事に非常に強烈に固執していることだ。』― 2009年11月誕生日のサットサング ―

このことから、帰依者たちの間に「彼は、彼女は、そのうちの一人なのか」という噂話や果ては嫉妬までが起こり、2009年11月に「メッセージ‐教え‐を渡すことができない」と大聖から告げられた為、反発して、『ここに居るまたは来ている自分は、ナニガシカであって当然だ! 』と自大自我によって大聖に要求する、以下の2010年マハシヴァラトリ時の質問、則ち煩悩となって顕れるのである。それは、日本のコンタクト・パーソンがアシュラムを去った後のことであった。

質問:私たち全員がここに居るという事実は、私たちが他の生涯においてあなたの弟子たちであったことを意味するのですか?

―――私はスリランカに生まれ、今私はインドにいる。私は、今日ここに座っている。どこかに生まれたあなたたちは、ここで私の前に座っている。あなたたちは、2010年にここに居ることを計画し、それであなたたちはここに座っているだろうと計画したのか? あなたたちは、それを計画したのか? 私は、自分があなたたちに会い、このようにあなたたちに話をすることを知っていたのか? なぜ、あなたたちはここに来たのか? 何のためなのか? あなたたちは、ここに来るのに非常に多くの金を費やした。あなたたちは、あなたたちの時間を無駄にするためにここに来ているのか? いったいなぜ、私はここに来るのだろうか? それは、あなたたちの質問に答えるためだったのか? なぜ、私は、そのような質問に答えているのか?
私は、あなたたちの質問に答えずに立ち去ることもできないと、確かに言うことができる。事実は、私は、自分の思うままには何も行なうことができないということだ。それはすべて、既に書かれていたのだ。それは、ずっと昔に既に書かれていたのだ。あなたたちがこの質問を尋ねなくてはならず、私がそれに答えなくてはならないことは、運命付けられていたのだ。このことすべてが、既に書かれていたのだ。既に書かれていないことをあなたたちが計画できることも、行い得ることも、何一つない。この帰依者(ヴィグネシュワラン、スリランカ出身のブラーミン男)がここでこのこと(運命付けられていたとスワミジが話す言葉)を通訳していることは、既に書かれていたのだ。(ヴィグネシュワランと話をしていた演台上の者を指して)このアシュラム居住者がやって来てここに居ることは既に書かれていたのだ。
私は特定の仕事のために(地上に)来た。私はそれを行なってきたし、それを行なうつもりだ。それから、私は(地上を)去るだろう。この帰依者(通訳者ヴィグネシュワラン)は、このアシュラム居住者に、意図的に師の言葉を真逆に通訳した等々の故に私が彼に腹を立てているかどうかを尋ねた。私は誰に対しても腹を立てていない。あなたたちが私に会うためにここにやって来て、私があなたたちに答えなければならない、と言っている真の采配者は、私ではない。神がこのことすべてをなさっている。それは既に書かれていた。要するに、すべてのことは書かれていたということだ。・・・私が刑務所にいなければならないという事実は、既に書かれていた。神がそのように意志なさったので、そのようになっている。神は私が刑務所にいることを好まれたので、それで私はそこにいる。私が刑務所の中にいなければならないという事実は、既に書かれていた。私はいつでも望むときに出てくることができ、それは、すべて私の気まぐれ次第だと考える帰依者たちもいるかもしれない。もし彼らがそのように考えるなら、そのときそれは、彼らが私に私の力を利己的に用いるよう頼んでいるということを意味する。―――あなたたちは、私がアシュラムに居るとき私を自由にさせない。したがってすべてのことは、既に前もって書かれているのであり、それが今起こっているのだ。―――


繰返される事象
1994年11月17日(大聖冤罪逮捕の前日)以来のパーダ・プージャ
自らの行動を自覚しない帰依者たち
『何一つ、あなたたちによってなされることはない。すべては彼≠フ行為だ。神の行為だ。神があなたたちを行動させているなら、そのとき、どのようにしてあなたたちはそれを止めることができよう? ・・・あなたたちは、あなたたちをここアシュラムに送られている神の目的を理解しているか? あなたたちが理解できる一つのことは、すべてのことは神の御心だということだ。このパーダ・プージャ(聖足拝礼)は長い間を経て今日起こっている。 ・・・1994年11月17日にパーダ・プージャが行なわれ、今2010年2月15日に、それが再び起こっている。私は既に朝のパーダ・プージャをキャンセルし、この午後のそれをキャンセルしようとしたが、このアシュラム居住者がそれを今日すべきだと非常に切望した。 ・・・(この聖足拝礼は、日本のコンタクト・パーソンを礼拝堂に留め置いて排除した隙に、大祭会場にて行われた。) 今、ここには、コーディネーター全員がいる・・・あなたたちの行動すべてとあなたたちが行なうすべてのことは、神に知られている。あなたたちは、あなたたちの国で何を行なうつもりなのか? あなたたちは、そこで何か良いことを行なうつもりなのか? あなたたちは、何を行なうつもりなのか? あなたたちは、このことすべてをシヴァラトリの夢だと思うつもりなのか? それとも、それを引き続き行うつもりなのか? 』


すでに書かれていた―――帰依者たちの行動
時々あなたは、何かが私たちの頭に書かれているとおっしゃり、それは、ある体験を経ることが私たちの運命であるとおっしゃいます。それは何を意味するのですか?

―――タミル語で、何かがあなたの頭に書かれていると言うのは、一定の物事を体験することが、この生涯におけるあなたのカルマなのだということを意味する。他の諸文化では、あなたの掌に書かれていると言う。それは、一定の物事があなたの宿命・運命であり、それは避けることができないものだということを意味する。内在する真正の師すなわち神の恩寵のみが、その諸結果を小さくするのを助けることができる、あるいはあなたについて書かれていることを変えることができる。』― 1999年3月3日 ―


恩寵を両手からすべり落とす帰依者たちのカルマと、実現する大聖の言葉
『あなたたちは師を通して神の恩寵を得ることができるが、それに値するのか? 私があなたたちに祝福を与えるとき、あなたたちは、祝福を両手から即座にすべり落としてはいけない。あなたたちが手を伸ばすとき、私はその恩寵がしっかり留まっているか、滑り落ちるかを知っている。大抵は、恩寵を滑り落としている。スリランカ出身の私のタミル人帰依者たちは、少しも留まらないようなやり方で、両手を斜めにしている。彼らは、自分たちの問題を話しては去る。彼らは、祝福を得(たと思っ)ては去る! 私の外国人帰依者たちは、その両手を、在るべき様には、差し出さない。両手をもう少しカーブさせ、つまり――師の教え、師の言葉、ダルシャンという外形に内包される恵み≠拝受する姿勢をあなたは鮮明にし、恩寵祝福(というエネルギー)を自分の中に保持するようにしなさい! 謙りと耐忍びを、培いなさい!―― あなたを通して実現しようとしている形象<Jルマを内在の師が変容することができるように。――― 1994年以前 ―

実現する言葉
『ある日、私の言葉は本当に実現するだろう。』― 2004年4月25日 ―

『あなたたちが朝から晩まで信用して話すさまざまなうわさ話が、後に、あなたたちに悪影響を及ぼすだろうということなど、まったく思いもしない。―――もしあなたたちがうわさ話をしゃべり続けるなら、あなたたちはうわさ話の虜になって、道を見失うだろう。』― 2004年1月 ―

『何が、あなたたちに師への信を失わせるのか? あなたたちは、うわさ話に耳を傾けたとき、師への信を失うのだ。』― 2009年8月 ―


『私は、私がそのために来た(霊性を教える)仕事を行っている。――― だがあなたたちがそれを好まないなら、そのとき私は、刑務所の中にいるだろう。――― (世間・カーストを盲追する)アシュラムでは、私の教えは、有効に働かないだろう。なぜなら、あなたたちは私の説く教えを受け入れず、反発して私を放り出すだろうからだ。』― 2008年7月 ―

『私が刑務所の中にいなければならないという事実は、既に書かれていた。』― 2010年マハシヴァラトリ ―

神人殺害
『世間の人々は、イエス・キリストを全く理解しなかった。彼らは、彼の神聖な諸力を認識せず、彼の教えを理解しなかった。彼らは彼の教えに従わず、最終的に彼を殺すことしかしなかった。普通の人々が彼に対しこれを行なったのだ。そのような普通の人々の中には、あたかも自分たちが霊性に関わっているかのような振りをする人々もいた。神人殺害を行なったのは、そのような人々だ。』― 2007年8月7日 ―

『ブッダは、ダルマ、つまりサナタナ・ダルマの生き方を説いた。生涯の終わりを前にしてブッダは毒を盛られたが、しかし彼はそれが起こることを知っていた。彼は、彼が与えている真の教えを受け入れない人々が彼を毒殺するだろうと予期していた。』― 2008年7月 ―

『あなたたちは、自分自身を成熟させず、依然として偽りの中にある。あなたたちは、自分自身を欺いている。あなたたちは、「霊性、霊性!」と言い、自分たちの上に霊性の毛布をかぶせている。あなたたちのマインドの中にも、ハートの中にも、想念の中にも、霊性は全く存在しない。』― 2009年マハシヴァラトリ ―

裂開の剣
『あなたたちが霊的人生に関心をもつなら、そのとき、私はあなたたちがその人生において幸福を持てるよう祝福するだろう。・・・ しかし、もしあなたたちが神を理解せず、神のハートと共感しないなら、そのとき、あなたたちは、神から離れるままに堕ちて行くだろう。』― 2009年11月 ―

神聖な愛を理解しない人々
『自分の個人的な欲望を実現するために、ハートの内にさまざまな利己的な期待を隠して、非常に甘い愛情を装った言葉で話し、真の神聖な愛を示す振りをし、他者を欺く人々が数多く存在する。他の人々を騙して(旅行のようなその時だけの)束の間の楽しみに耽らせ、さまざまな期待の中に人を留めておくといったことを含む、このような利己的な誘惑は、(神の)神聖な愛の純粋さを消し去る役目しかしない。あなたたちは、日々の実際の生活の中で、策謀する人々の利己的な誘惑が(神の)純粋で神聖な愛を汚すのを放置し続けている。

マザーの純粋な愛を理解したか? あなたたちが自己規律を持てるようスワミジが怒って訓練したとき、師の愛を理解したか? 法友である兄弟の一人があなたたちの誤りを正そうとしたとき、その愛を理解したか? もし、あなたたちが真の愛とは他者からのハートを溶ろけさせる甘い言葉を意味するのだと考えるなら、あなたたちはいったい、神聖な愛の本質を理解することができるのか? 』― 2008年2月 ―

『もし、あなたたちが真の愛を理解しないなら、あなたたちはただ無情で愛のない肉体となるだろう。』― 2004年3月 ―

動物性へと堕ちた帰依者達
『例えば、シヴァティ(スワミ・カマラナンダの娘)はシュバカに生まれ、マタレに来て、それから(スワミと共に)インドに来、しばらく勉強し、それから彼女はアシュラム及びトラストをゆっくりと乗っ取りつつある。・・・
では、今あなたたちと一緒に瞑想しているのは誰か? 例えば、あなたたちは自分たちと一緒にいるのが誰だか知っている、これはニティヤ・マタジ、これはニルマラ・マタジ、これはイサベラ、ドリアン、ガンガだと。しかし私は、そのようには見ていない。(一人一人の内面のありのままを見て)私はこう考えるだろう。これはゾウだ、これはサルだ、これはロバだ、これは馬だ、これはトラだ、これはライオンだと。コブラである者も居る。私にとっては、あなたたちはこのようにしか見えない。なぜ、私はこのことを言っているのか? もしあなたたちが私に、ここに誰か人間はいるのかと尋ね、私が人間を見るなら、そのとき初めて、あなたたちは「ああ、これが人間なのか」とわかる。例えば、誰かがこの部屋に入ってくると、ああ、これはマングースが入ってきたなと私は思う。私は、マングースがどのようであるのか知っている。また、ある者はサルのようだ。なぜなら、彼(女)らは常に不正行為(モンキー・トリックス)を行うからだ。なぜなら、彼(女)らはサルのようにうろつきまわり、しばらくの間一箇所に座っていることさえできないからだ。私は、そのような者に「ハロー、モンキー」と言う。それで私は、シヴァティに「ハロー、ご機嫌いかが」と言う。私はこれを冗談で言っているのではない、これは、真面目な話だ。あなたたちが自分たちは人間だと言うなら、より高位の諸特質、より高位の良い振る舞いを持つべきなのだ。あなたたちは皆、六つの感覚を持っている。動物たちは、五つの感覚しか持ってない。だから、あなたたちは、動物のように振舞うべきではない。だから、あなたたちは瞑想を始めるとき、瞑想を行うことによって、あなた自身をサルから人間に変えようと努めているのだ。それが、あなたたちの行っていることだ。瞑想の状態によると、あなたたちは、依然として人間それ自体の状態に至っていない。・・・ シヴァティが「ガウリは私を傷つけている。仕返しで私もまた彼女を傷つけるべきだ」と言うなら、彼女はサルから(ガウリの様な)ロバになりたがっているのだ。(シヴァティに向かって)あなたが不正行為(モンキー・トリックス)をし続けながら、自分は人間になろうと努めていると主張するなら、ではなぜ、あなたはロバのように振舞うのか? ・・・ (このように)アシュラム・オフィスにいる人々がしていることは、誰か自分より、良く発達し、より高位の状態に行っている者がいれば、その人間を引きずりおろそうとすることだ。なぜか? これは、人間としての特質なのか? ・・・ まず第一に、あなたたちは、あなたたち自身の諸特質(動物性)を、人間としての諸特質に変えなければならない。その後で初めて、あなたたちは瞑想について考えるべきなのだ。』― 2010年12月 ―

マザーの誕生日サットサング 
私は霊的な講話をするつもりはありません。なぜでしょう? それは、完全に役に立たないからです。あなたたちに霊性について話すことは役に立ちません。なぜなら、あなたたちにはその基礎がないからです。あなたたちは最初から始めなくてはなりません。― 2009年1月 ―

動物と化した帰依者達と、邪悪な外来者達
『私があなたたちに何を言おうとも、それはあなたたちが自分の人生において至福を体験するためなのだ。しかるに、あなたたちは私を理解せず、仕返しを考える。』― 2004年4月25日 ―

『あなたたちが良くない諸想念を持つとき、あなたたちはまた、良くない人々をあなたたちのもとへ引き寄せる。そのような人々は、あなたたちに良い友情を捨てさせ、あなたたちに影響を及ぼし、良い人々をあなたたちにとって有害であると信じさせるかもしれない。あなたたちが邪悪なマインドを持つ人々と一緒に時間を過ごすとき、そのような邪悪なマインドを持つ人々は、まったく神性を理解せず行動しているため、あなたたちもまた、悪い物事に加担するかもしれない。』― 2010年 ―

『私は、アシュラムで起きていることすべてを知っている。誰一人、いかなる害も引き起こさないだろう。私は、何もアシュラムでは起こらないようにするだろう。』― 2009年 ―

2008年マハシヴァラトリ時には、大聖に賞賛されるヨーロッパからの姉妹帰依者が嫉妬の対象になっていた。翌2009年マハシヴァラトリに、彼女たちおよびヨーロッパからの男性計3名に危害を加えようとする動きが、アシュラムに潜入していた者達の働き掛けで起こった。2009年春、姉妹の一人―――数年間アシュラムでセヴァをしていた女性が帰国する際、大聖は、「あなたが自国に帰っても、私は何としてもあなたの命を守るだろう」とおっしゃった。また、2010年のマハシヴァラトリに、大聖は「去年彼女たち姉妹は、トラブルに遭って本当に大変だったのだ。彼女たちは、本当に危なかったのだ。彼もトラブルに遭って大変だったのだ」とおっしゃった。以上から、2009年マハシヴァラトリでは、スワミジに会う経路の類似から日本のコンタクトパーソンの活動に理解を示していた姉妹帰依者たちの命が狙われていたことがわかる。彼女たちは、2010年のマハシヴァラトリには来なかった。

2010年マハシヴァラトリには、日本のコンタクトパーソンを殺害するという企てが背後にあったが、大聖はインド警察をアシュラムに連れてこられてその動きを封じ、さらにまた、朝の3時半までという異例の長時間の個人インタヴューを与えられることによって、帰依者を装ったG会工作員夫婦を長時間プージャホールに留め置かれ、日本のコンタクトパーソンに更なる危害を加えることを阻止された。連中がアシュラムを去るやいなや、個人インタヴューは通常の長さに戻った。

2010年アシュラムでのマハシヴァラトリの騒動に紛れて、大聖を暗殺しようという計画があったが、大聖はそれを回避され、定められていた2011年、アシュラムの外で毒殺された。


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