スワミ・プレマナンダ その半生を語る


大聖自らを語る


第三章 最初のアシュラム


すべての宗教のための平和の家
 発表するまでもなく、私はヒンドゥー教の僧と見なされているが、しかし私の内的感覚はすべての宗教の本質を愛しており、自分はすべての信仰を尊重する人間であるというものだった。私は誰に対しても何らかの特定の宗教を課したことは一度もなかったし、今でもしていない。私はただ霊性を教えるだけだ。霊性はすべての宗教に共通するものだが、さまざまな宗教において異なる方法で表現されている。私の霊的な概念は、私たちは常に霊性において成長するよう努めるべきであり、私の信奉者たちはその人自身の宗教にしたがい、自身の霊性の道において成熟すべきであるというものだ。私の概念を人々に対して表現し強調するために、私はマタレのガンジー・ホールで“サルヴァ・マタ・シャンティ・ニラヤム”を始めた。この私の新しいアシュラムの名前の意味は、「すべての宗教のための平和の住処」だった。しかしながら、さまざまな宗教の指導者たちはこの考えをまったく好まなかった。仏教の僧侶たちは、私が自分の小さなアシュラムでヒンドゥー教の神々の肖像画の前で仏陀や仏教について話すのを好まなかった。キリスト教徒たちは、他の“偽の神々”と並んだイエス・キリストの肖像画を好まなかった。イスラム教徒たちは、他のどんな宗教もまったく無意味だと見なし、そうした他の宗教に自分たちの宗教を関わらせるのを好まなかった。それぞれが自分たちの宗教の純粋さを保つことを望み、私は自分の考えを表現することに関し、多くの不安や精神的な激しい苦しみを経験した。宗教間の相違を洗い流し、宗教間にもっと寛容さと理解を徐々に浸透させるということは不可能であるということがわかった。それは私に大変な心痛を与えたが、一致と調和を創り出そうという試みを私は止めなかった。私は「プーバラクリシュナ・アシュラム」という新しい名のもとに、同じ理想を進めることを決心した。このアシュラムの名は、花々のような若いクリシュナを意味する。

 非常に若い頃から、私は家のない子供たちや望まれない子供たちを引き取り始めた。私は自分自身が少年のときに拒絶と孤独を体験したので、そのような子供たちの胸中がとてもよくわかった。まあ、私自身、まだ少年であり成人してはいなかったからだが。自分の使命を開始したとき、私はほんの十七歳の若者だった。私のところへ来た他の子供たちは、とても幼い子から十代までの子供たちだった。彼らのうちの何人かは依然として私の使命とともにあるが、他の者たちは定期的に私と連絡を取り合っている。子供たちの数は見る見るうちに増え、奉仕を行う在住の帰依者たちが面倒を見た。子供たちは皆地元の学校に通っていた。子供たちは非常によく面倒を見てもらった。食べ物、衣服、学費、住まいのすべてが無償だった。私は子供たちを私の本当の子供であるかのように扱った。私はとても厳格だった。私自身がいたずら好きな少年だったから、あらゆるいたずらや悪さは知り尽くしている! 私も若かったので、彼らのあらゆる問題や心配事や不安についても彼らを理解し助けることができた。私はまた、彼らを霊的にしつけた。子供たちは皆、毎日のプージャや祈りに参加し、バジャンを歌わなければならなかった。私の孤児院には、キリスト教徒の子供も、仏教徒の子供も、ヒンドゥー教徒の子供もいた。ほとんどの子供たちが私たちの生活の宗教的な側面を愛し、大勢の子供たちが丘の上の私たちの美しい瞑想センターで瞑想することを学んだ。

 私は、私が育てた子供たちと私が教えた帰依者たちとを分け隔てしたことなどまったくなかった。今でも、私はあらゆる宗教を平等に扱うための自分の仕事を続けている。誰でも導きや助けを求めて私のところへ来ることができる。ヒンドゥー教徒である必要はない。人々が自身の信仰と宗教の範囲内で成長し、その真の本質を深く理解し感じるように私は励ましている。

 時が経ち、プーバラクリシュナ・アシュラムは栄えた。満月の日には、私たちはアンナダナム(宗教的な実践の一部として無償で食べ物を配ること)として二千人近い人々に食事を与えた。瞑想センターは熱心な熱誠者たちでいっぱいだった。訪問者たちが、霊性の導きと瞑想のために海外から定期的にやって来た。霊性生活を始め、世俗の生活を放棄し、私とともにいたいという希望を熱心に語る人々もいた。家族全体で私の教えに従いつつ霊性を実践している人たちもいた。

 両親たちと子供たちは街を離れ、父親たちは重責ある行政の仕事や職業を離れて、美しい自然や平和な瞑想キャンプ、霊感を与えるプージャや神についての私の講話、そして神聖な生活を楽しみながら長い週末を過ごすことを好んだ。あらゆるものがその内で憩う私たちのプーバラクリシュナ・アシュラムと瞑想センターでは、政府の大臣たち、技師や医師らが霊的な主題について聞くことを切望して、一介の村人たちや農夫たちと並んで座った。多くの人々がこう言った―――ここは小さな天国であると。

 簡素で自然で美しく、世俗的な生活の単調さを離れた最も重要な場所、真我を探求することができる場所だった。朝から夜まで、プージャのベルの音と神の神聖なる御名を聞くことができた。1983年の夏、スリランカの帰依者たちと外国の帰依者たちの両方が瞑想センターを修復するのを手伝った。その後で、大いに異なった未来が私たちを待ち受けていることを神は明らかにされたのだった。


プーバラクリシュナ・アシュラムの破壊
 私たちの平和は一夜にして打ち砕かれた! 1983年の7月3日のことだった。スリランカとスリランカの人々にとっての最後の審判だった。猛烈なアンチ・プロパガンダによって煽り立てられた社会の暴力的な分子のせいで、突然巻き起こった激しい怒りと暴力の中、過激なシンハラ族グループがタミル人を攻撃した。爆発や炎によって、家々、店、劇場、会社や寺院が跡形もなく破壊された。国中至る所で、罪のない人々が殺された。私たちのプーバラクリシュナ・アシュラムと平和な瞑想の場はめちゃめちゃに破壊され、焼かれた。地元のある仏教徒グループたちが私に対し抱いている憎悪は長々としたいきさつがあり、その憎悪は、まず最初に孤児院のど真ん中に打ち込まれ雨あられと落とされる焼夷弾で表わされていた(訳注:邪悪な外部勢力に煽動された、1983年のプーバラクリシュナ・アシュラムの破壊は後に、2010年のスリ・プレマナンダ・アシュラムの、完全な霊的破壊となって繰り返された)。子供たちと帰依者たちは死に物狂いで走って逃げた。

 爆弾が投げ込まれたとき、私はアシュラムにいなかった。私はそのときにいた場所で電話を受け、直ちにアシュラムへ駆けつけた。道すがら、道路脇にいる悲惨な状態の気の毒な人々や家々が真っ黒になって焼けているのを見かけた。私がアシュラムに着いたとき、自分のアシュラムも焼けているのを見た。これを行った人が誰であろうと、その人は私の孤児の子供たちを標的にしようとしたのだが、私は子供たちを何とか救い出し、バブーニヤ地区のプリヤンクラムにある、アシュラムのもう一つの分館へ彼らを送り出した。

 そのころ、テロリストたちから安全であるために私はどこへ行くべきなのだろうか考えた。親しい帰依者であるマタレの徴収官テナクーン氏(徴収官は地方長官のようなものである)が、心配そうに私を探しにやって来て、自分と一緒に来るようにと強く求めた。彼は私を自宅へ連れて行き、そこへ二ヶ月間囲まったのだった。その後で、彼は私をコロンボへ連れて行き、そこでインド高等弁務官チャットワル氏に会いに事務所を訪れ、私はチャットワル氏に一部始終を話した。チャットワル氏は直ちに私のためにインドビザ取得の手配をしてくれた。民族的暴動のため、数多くのタミル人が定住していたスリランカから避難民として離れていた。数日の内に、私はスリランカのパスポートと必要な書類とビザを取得した。私はスリランカを離れ、ただ二組の服と一個のスーツケースを持って…他には何も持たずにインドへやって来たのだった。


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