スワミ・プレマナンダ その半生を語る


大聖自らを語る


第四章 インドでの新しいスタート


インドにてアシュラムを創設
 チェンナイ(マドラス)の空港に降り立ったとき、その地は私の祖先の地であったにもかかわらず、私は自分がまったく知らない土地にいることに気づいた。私はインドに知っている人も場所もなかった。しかし、大変驚いたことに、空港を出ると、年配の婦人が私の名が書かれている大きな旗を持っているのを見つけた! 彼女はカマラバイ・ナイドゥ夫人だった。後に私は、スリランカの帰依者たちが私のロンドン・センターに連絡を取り、そこからインドでの私の滞在先を手配してくれたことを知った。ナイドゥ夫人は私をマドラスの自宅へ連れて行ってくれ、私はそこに滞在したのだった。

 その後、私はインド中の聖地詣でに出かけ、数多くの有名な場所や寺院やアシュラムを見た。旅行中、私はティルチーを訪れた。私はその地域を大変気に入った。特に二つの聖母寺院、サマヤプーラム・マリヤマンとヴェッカリ・アマンの寺院を特に愛した。

 私はそこに留まることに決め、孤児院のあるアシュラムを建てることに決めた。私がタミル・ナドゥ州政府に自分の考えについて話をもちかけたとき、州政府は1エーカー(約4047平方メートル)の土地を提供してくれた。私は、それでは十分でないと答えた。州政府は、もし私がもっと土地が欲しいのなら自分で買うべきであると言った。私はただ、そうした―――プドゥコッタイ地区のヴィラリマライの近くに最初5エーカーの土地を買った。ゆっくりと、私はその周囲の土地も買い、そこに自分のアシュラムと孤児院を建設し始めた。

 スリランカに残してきた子供たちは、インドへ来て私と一緒に暮らすことを望んでいた。子供たちが求めたように、私は彼らを連れてきて、彼らは、一部が建ったアシュラムに住んだ。しかし、私は依然としてティルチーのシーニ・テヴァル氏の家に滞在し続けていた。私の母を含む親戚のほとんど(私の父はその数年前に亡くなっていた)と、親しい帰依者たちのかなり大きなグループが、インドで私と一緒に定住するためにやって来た。彼らは私の近くにいるのが一番良いと感じていた。私たちはその地域のさまざまな家々に滞在した。私たちがどこへ行こうとも、私たちの小さな共同体は毎日アビシェカムとプージャを行い、週末にはバジャンとスピーチを行った。まもなく、大きくなってきたインド人帰依者たちのグループが私の周りに集まり始めた。

 私が購入した土地は、不毛の見捨てられた土地だった。棘のある潅木と、無数の小さな岩や石で覆われていた。誰もが私に、そこには水がまったくないと言った。私はその土地を開墾し、豊かな緑に覆われた霊性のセンターにすることを決意した。私の夢は、その土地を数多くのさまざまな木々や花々が咲き乱れる潅木の茂みで覆うことだった。それはきっと神に捧げられた美しい場所になる。ゆっくりと、私の考えは現実化した。帰依者たちと私自身が何ヶ月間も力仕事をした。私たちは岩や棘のある植物を取り除き、小さな木々と花々を植えた。私たちは、昔のアシュラムのような伝統的な草葺の屋根の簡素な建物を建てた。

 アシュラムは基本的には1989年の終わりに完成した。私たちは盛大なオープニング・セレモニーを行った。数多くの高い地位にある役人や、さまざまなアシュラムや聖なる場所からいろいろな聖者たちがセレモニーにやって来た。インド中からそして世界の他の国々から激励のメッセージが舞い込んだ。大臣ら、スリランカ大使、大統領、首相、そして三人の前首相、高等弁務官、仏教指導者、キリスト教指導者から、励ましの手紙や電報が送られてきた。聖者たちは力付けの聖句や教えを送ってくれた。タミル・ナドゥの僧院指導者たちが私たちの新しいアシュラムを開くためにやって来た。このように、アシュラムと私の教えに従う人々のそこでの霊的な生活がインドにおいて育ち、形になり始めたのだった。

 最初、新しいアシュラムを何と呼ぶべきかについてちょっとした混乱があった。もし、私たちがインドでそれをプーバラクリシュナ・アシュラムと呼んだなら、それでは、一般の人々は、私たちがヴィシュヌあるいはクリシュナだけを礼拝するのだと考えたことだろう。したがって、帰依者たちはアシュラムの名称に私の名を用いることを望んだ。こうして、“スリ・プレマナンダ・アシュラム”が誕生した。

 私の若い頃からの霊的な理想の一つが、すべての宗教において人は神を理解すべきであるということは、既に話した。また、さまざまな宗教のいろいろなグループはそれぞれの違いを捨て、人類の利益のために協力すべきであると私は望んでいた。いったんインドに定住すると、私は、さまざまな環境にある数多くのいろいろな聖者たちに会った。私はよく聖者に会うための小さな霊的な旅を企画したり、聖者にアシュラムへ来てもらい、私のところへ滞在してもらったものだった。ある聖者たちは私のことを大変気に入ってくれ、頻繁に会ったものだった。

 私はディヴァイン・ライフ・ミッションの偉大なるスワミ・チダナンダと大変親しくしていた。彼はよく私を行事に招いてくれたし、また、私たちのアシュラムへ滞在しにやって来た。私たちは同じ理想と霊的な感覚を分かち合っていた。私は何度かティルヴァンナマライへ行った。私はこの神聖な場所を愛している。ある時、私は特に“乞食聖者”ヨーギ・ラム・スラト・クマールに会うために行った。私は今でも彼のことについて話すのが大好きだ。なぜなら、彼は道端の乞食のような身なりをした霊的な王であるからだ。二、三だが例を挙げると、私は、サティヤ・サイババ、ラーマクリシュナ・ミッションのスワミ・ブテシャーナンダ、ケララのマータ・アムリターナンダ・マイに会い、アディ・パラ・シャクティ霊性運動のバンガル・アディガルと話をした。私はまた、大変頻繁にタミルの偉大なる僧院指導者たちと会合したり催しを行ったりした。私は、偉大なるスワミ・ラムダスによって始められた霊性のセンター、アナンド・アシュラムを訪れた。スワミ・ラムダスの偉大なる弟子マザー・クリシュナバイに会って、彼女の後継者スワミ・サッチダナンダと定期的に連絡を取り合っていた。歌う聖者ピツクリ・ムルガダスは、私の誕生日に歌を歌うためにやって来て私たち皆を祝福してくれた! アシュラムでは、月に一度、貧しい人々、あるいは放浪するスワミジたちやマタジたちに食事を供する特別な日があった。それは忘れられないひとときだった。私たち霊性の人々は、サットサングという形で、理想と至高の感覚を分かち合うために集まることを好んだ。こんなふうに、私たちは、私たちの信奉者たちに、これらの神聖なる波動と一致した感覚を伝えることができたのだった。

 私は非常に数多くの行事や宗教的な会議に出席した。一番最初は、1986年にティルヴァンナマライで行われたものだった。私は、そこでスピーチを行う一番歳若い僧だった。私はちょっと遠慮なく物を言うため、一番年長の僧らの中の幾人か、非常に保守的なスワミジたちは、そのことを好まなかった。後に、私は、インドのヒンドゥー教組織ヴィスワ・ヒンドゥー・パリシャッドの招きにより、数多くの催しに出席し、彼らと一緒にいる貧しい人々を助けようと努めた。何千もの人々が出席した1990年テニでの五日間の大きな催しを思い出す。私は、結婚式、寺院の催し、他のアシュラムの催しなど無数の行事に招かれた。アシュラムの評判がますます高まったため、私は自分が出席する莫大な数の外部の催しを減らした。アシュラムはあまりにも早く発展したので、私たちは、慰めと霊的な助言を求める膨大な数の人々に忙殺された。帰依者たちが訪れるのは土曜日と日曜日のみに制限しようとしたが、帰依者たちは他の曜日にもやって来た。数多くの外国人がやって来た。―――あるアメリカ人の帰依者はかつて私に次のように手紙を書いてきた。「スワミジ、あなたのアシュラムは実際あなたの帰依者たちのハートの中にあります。あなたが私たちのハートに触れた後、私たちは国に帰ってその神聖なるひとときを愛情を込めて思い出します。アシュラムの思い出は、私たちが行くところどこへでも、何千人もの帰依者たちによって世界中に運ばれています。」


真の霊性を実践し体験するためには、あなたがどの国にいようと問題ではない。霊性は、何か特定の場所ではなく、あなたの内側深くあなたのハートの内にある。あなたのグルジのことを考えなさい。グルジを呼びなさい――彼はすぐに来てくれるだろう。テレパシーの力は即時だ! それは外界の音や目に見える光よりも速い。グルジはあなたを訪れ、あなたの家を見て回り、そして帰るだろう。どのようにしてか? 尋ねるな――それは彼の贈り物だ。 ―1992年8月21日―


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