大聖とカリ期の人々


大聖と、カリ期の人々


第八章 参集者たち 〈二〉


ドラマの開始点
神聖な存在を
心中自らの観点から自らの属する世俗に引き摺り降ろしてしまう参集者たち
あなたたちは、悟りを得た人々の行いやそのような人々が自らの人生を処するやり方を完全に理解することはできない。悟りを得た人々の実際の生活は、(表面上)普通の人間の生活と同じようなものかもしれないが、彼らの考えは完全に世俗的な生活から離れている。あなたたちが彼らを普通の人間と見なして、彼らに話しかけ、彼らと接触を持つとき、あなたたちは聖者たちを軽く見始める。  ― 2005年4月 ―


内なる師に対面して、自ら真実であるか、否か
 まず第一に、あなたは、自らに問わなくてはならない、「私は自らに誠実、真実であるか? 」と。あなたが自らを偽り、真実でないなら、そのとき、どうしてあなたは、あなたの師に対して、嘘偽りなく真実であることができようか?   ― 1987年10月~11月 ―

英 知
自らを欺き、悟得成道≠欲していると言い訳をしながら、大聖の物理的周囲に居て利得を得ることに固執する人々
 一人一人の道はその人特有のものだ。あなたが永久的な幸福(アーナンダ)に達することができるよう、あなたをよりいっそう神に近づけ、神の恩寵を受けることができるように導くのが、英知を達成する(各自固有の)道≠ネのだ。―――
私は話すことによって、私の周りに集まってきた人々と良い人間関係を築こうと思ったが、それは生じなかった。たとえ私が、私の霊的身内であると見なしていた人々に対し心を開いて話しても、私は、それぞれの人は異なっており、その人が持つ特質に従ってある特定のやり方で行動するだろうということを忘れていた。彼らは、一定の期待を持って私と話す。彼らの世俗的な期待が満たされたとたん、彼らは紙くずのように私を投げ捨てるだろう。そのとき私は自問する、教えたことのすべては何だったのかと。私の霊的身内であると見なしていた人々が私に敵対したことを除けば、(英知・悟り・アーナンダが欲しいと口では言う)彼らが自己規律を持てるよう 彼らに厳しく話をしてきたその結果はどうか? ―――
その当時から今に至るまでずっと私が口にしてきた言葉を、あなたたちの内なる光を強め拡大しあなたたちを至福(アーナンダ)へと導くために語られてきた これらの言葉を、誰か理解したのか?
誰も理解しなかったし、また理解しているようにも想えない。なぜなら、彼らは私が言ったことを信ぜず、疑いを抱くようになったからだ。彼らは私が与えた助言を疑い、自分たちの内に生じた数多くの疑問を他者に尋ね、そうして、私は、彼らが良識を働かせることができずに混乱して立ち尽くしている様を見た。   ― 2004年1月 ―


起こることを予見して
あなたたちが朝から晩まで信用して話すさまざまなうわさ話が、後に、あなたたちに悪影響を及ぼすだろうということなど、まったく思いもしない。―――もしあなたたちがうわさ話をしゃべり続けるなら、あなたたちはうわさ話の虜になって、道を見失うだろう。― 2004年1月 ―

誰かが自らの欲望を表現したいときはいつでも、甘い声で数多くの愛情を表わす言葉を言うものだ。これらの言葉が愛であると信じてはならない。そのような言葉に魅了されてはならない。そのような愛が虚偽であることを 時があなたたちに示すだろう。このことを後ではなく今理解するほうが良いのだ

愛のような神聖なるものと、無意味な言葉を混同してはならない。そして、それによって、愛の真の意味を汚してはならない。―――
もしあなたたちが真の愛〈=神〉を理解しないのなら、〈総てに内在する神と、その現前である化身(アヴァター)に価値を置かない〉あなたたちはただ無情で愛のない肉体となるだろう。』― 2004年3月 ―


カリ期特有の偽る人々を前に
 ああ、私の子供たち、私は、ただ会話をするためだけにどうしても話をしなければならない義務を負ってなどいない。生まれながらに、私は、嘘を言ったり、盗んだり、振りをしたりするという特質を持っていないのだ。これらの特質が私の中には一切ないことが、まさに私の性質なのだ。しかし、それらの特質は、私の子供たち、つまり私の帰依者たちおよび私が付き合う人々の本質的要素だ。私はこれを見てきた。私はあなたたちにいつも言っている、私に嘘を言わないように、私の前で振りをしないようにと。なぜなら、もしあなたたちが振りをしたり嘘を言ったりしたら、私はそれが分かるからだ。その時点で、私は、彼らは決してこの生涯において変わることはないだろうと思うのだ。ああ、彼らは私が育て上げた子供たちであって、今や彼らは私に霊的に親和している訳ではない、(師に離反すること)それは構わない。私は、偽りを言う彼らを、心中から只放擲するだけだ。というのも、私は自らの良心に従い、心中に偽りの余地はないからだ。

それぞれの人が、自らが自分自身の良心に正直であるかどうか、自分自身について分かるだろう。あなたは分かるだろう。人々は私に手紙を書いてくる。彼らは心を込めて書いているか? それともただ書くためだけに書いているか? 私の手紙を読んでみなさい――それらには真実、ダルマ、誠実さが込められている。それらの手紙には、ただあなたたちを喜ばせるためだけの言葉は一語も入っていないだろう。私はあなたたちを満足させたり喜ばせたりするために手紙を書く人間ではない。もしあなたたちが、私が信を持って書く一語一語、一文一文すべてを読み、そしてあなたたちがそれを信じてそれに従うなら、あなたたちの人生は至福に満ちたものだろう。もしあなたたちがそれを信じないなら、自分の人生に損失しか感じられないだろう。あなたたちがそれを理解するかどうかはあなたたち次第だ。私があなたたちを呼ぶとき、私は甘い言葉ではなくて厳しい言葉を使うかもしれない。もしかすると、私は優しく話さないかもしれないし、気短かかもしれない。私はそれを怒って行なっているのではない。あなたたちには頭があるが、もしあなたたちが頭を持っていないかのように行動するなら、どうしてあなたたちは頭がまったくないかのように行動しているのかと、私は尋ねさえする。私は、あなたたちが自らの頭を使い良い生き方で生きることができるよう、これらの厳しい言葉を用いるのだ。あなたたちのプライドを傷つけ感情を害する言葉もあるだろうが、その傷は治るだろう。私があなたたちに何を言おうとも、それはあなたたちがあなたたちの人生において至福を体験するためなのだ。あなたたちは私を理解せず、仕返しを考える。あなたたちは私に腹を立てているため、振りをし、嘘を言うが、それは私に影響を及ぼさないだろう。私が死ぬ日はくるだろうが、私の若さは決して戻ってはこない。より長く生きることによって私は何を見るのか? この世界において私がまだ見ていないものとは何か? 私は、名も形も持たない全一、すなわち聖なる母 を見ている。カースト、宗教、言語の違いは、すべて遊びであると感じている。優しく親切であるかのように、愛から言っているという振りをして人間たちによって語られるありとあらゆる言葉、私もまたそれらの言葉に魅了されたが、それでも、嘘は常に嘘のままであり、真理は常に真理であるだろう。

人間はこのことを理解しているか? 彼らは「愛、愛」とただ口走っているが、私にはその愛が理解できない。彼らは「愛、愛」と書いてよこすが、そこには何らの愛も見えなかった。自分たちの心の中にある以外のことを言う人々に対し、どうすれば私は奉仕を与えることができるのか?

私はそれ≠ノついて考えがあり、今それ≠行う用意がある。なぜなら、私は(全存在を物質へと貶め続ける)嘘を 理解したからだ。それは真実のように見えるが、嘘は真実になり得ない。人々が一つのやり方で話し、その後それとは違ったやり方で考えるとき、どうして彼らのマインドは浄化されることができよう? 人々は、金、地位、世俗的な生活は彼らの肉体がここ〈地上〉にある間しか続かないのだということを 理解していない。あなたたちは、自らの頭を不正な方法で働かせながら、自分の誕生の目的さえ理解せず、なぜそこに立っているのか? 私が繰り返し言い続けても、人々が依然として理解しないとき、それを言うことを止める方が良いのだ。私は、人々の空虚な言葉を信じる振りをしながら生きよう。
ある日、私の言葉は本当に実現するだろう。

ジェイ・プレマ・シャンティ!
― 2004年4月25日 ―


人が自らの内面に直面することを以て、人に教える
 どのようにすれば、私は、自分たちの心の中にある以外のことを私に言う人々に対し、奉仕を(向上の機縁を)与えることができるのか? 私はそれ≠ノついて考えがあり、今それ≠行う用意がある。   ― 2004年4月25日 ―


神の仕分け――真実を持つ者と真実を持たざる者とを切り分ける
 たとえ、私が今ここに座っているとしても、アシュラム中の掃除・浄不浄の仕分け・神の選定作業、が今行なわれている。それは、私がここに来たまさにその日〈 2008年3月4日 〉 から始まった。私は、人々の内面で顕在化を待っている すべての物事を 一箇所に持ってきている。私は、すべての物事を携えて この場にいる。 ― 2008年マハシヴァラトリ ―
内的に同じ事象がより大きな規模で繰返されようとしていることの重要な示唆――1994年マハシヴァラトリから十四年を経た2008年マハシヴァラトリ。この日は、冤罪逮捕されて以来の時を経て、大聖がアシュラムでマハシヴァラトリを迎えるべくやって来られた日だったのである。


起こるままにさせる

1994年以前、私は非常に厳しかった。今や、私は、すっかりやり方を変えたのだ。――今、私は常に、何であろうと 神の御心に従って起こるのだ と考えている。そのように考え、だから私は、何も 止めないのだ。――私は、起こらなければならないことを ただ起こるままにさせる。――なぜ私があなたたちに、このことすべてを話しているのかは、適切な時に起こらなければならないことが、その時に起こるだろうからだ。すべては、良いやり方で起こるだろう。あなたたちが期待してきたことは、非常に良いやり方で起きていくだろう。すべては、神の御心に従って起こるだろう。 ― 2008年マハシヴァラトリ ―

たいていの人々は霊性について話すことを好むが、しかし、それを実践することを好まない。私がもっと若かったとき、私はたいそう規律を欲したが、しかし、今私は、それが間違っていることを理解している。それは時間の無駄だ。最初私は、人々が霊性について何か知っていると思っていたが、しかし今、私は、彼らがそれについて何も知らないことを理解している。

私は、帰依者たちがマハーバーラタや他の聖典について、瞑想等について尋ねる質問のせいで、彼らは非常に霊性に関心を持っていると考えていたものだった。私がラーマクリシュナについて話したら、彼らはラーマクリシュナについて数多くの話を私に話したものだ――彼らは私よりも多くの話を知っていたのだ! 彼らはヴィヴェーカーナンダについて私に話したものだ。彼らの中にはキリスト教徒もいたため、彼らはイエス・キリストについて多くを知っており、聖書を読んだだろうと思っていた。それが、私の考えていたことだ。1994年以前、私は常にそのように考えていた。私がこのように(彼らは非常に霊性に関心を持っていると)考え、にも拘らず 彼らがそれに応じて行動しなかったとき、私は彼らに、規律ある適切なやり方で振舞うべきだ と言い始めたのだ。

今私は、それらの帰依者たちが霊性について何も知らなかったということを理解している。そうであるなら、どうして彼らに腹を立てたり、それについて緊張を感じたりなどが、必要なのか? 彼らは、彼ら自身を訓練すべきなのだ。 ― 2008年12月 ―

人の意思決定すべきを明示する
―― 自己意識を持つ人間に、受容するか拒否するか、選択を明示する ――
あなたたちは、自分自身を浄化することによって変容を始めなければならない。――誰か他者が、あなたを変えなければならないのか? 他の誰かが、あなたを変えることができるのか? 私があなたを変えることができるのか? いいや、私はあなたに(神の)教えを提示することしかできない。あなたは(内在の神性を認め)、自分で自分自身の〈内面〉を変えなくてはならない。 ― 2010年12月 ―


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